移民文化
いったいなぜ、六百年前、山西省洪洞県の「大槐樹」から、当局はこれほど大規模な移住キャンペーンを組織したのだろうか。その背景には、政治的・経済的、そしてその他の社会的要因が存在していた。まず、支配階級である腐敗した官僚たちによる非情な搾取があった。元朝後期には土地の集中が極度に進み、モンゴル貴族たちは封建的地主へと完全に転じ、それぞれ広大な農地を手中に収めた。彼らの多くはその土地を苛酷な条件のもとで小作人に貸し付け、小作関係を通じて労働者を徹底的に搾取した。その結果、「富者は毎年数百万斛もの穀物を収奪する一方で、庶民には蓄えるべきものが何ひとつ残らなかった」。北方諸地域では、不平等な租税や徭役制度が格差をさらに拡大させ、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっていった。
元末の農民蜂起は、当時の大地主階級に深刻な打撃を与えるとともに、新皇帝・朱元璋にとっても厳粛な教訓となった。明王朝の成立後、その統治の経済的基盤を確固たるものとするため、彼は移住政策や開墾政策を打ち出し、民営・軍営・商業による植民事業を推進した。この政策は洪武・建文・永楽の三帝の治世にかけて、五十年余りにわたり頂点に達し、その間、戦乱で荒廃した各地、とりわけ中原および北方の諸地域は次第に安定を取り戻し、社会秩序が回復、農業生産が再開・拡大して、社会全体の安定が一段と向上した。これにより、人口と耕地面積はともに着実に増加し、穀物の収量が高まり、国家の税収も増大した。一方で、官営・私営を問わず手工業も徐々に生産を再開していった。
洪洞県の人口移転の理由 明代における人口移転については、非公式な史料や民間伝承がそれを証言しているだけでなく、正史にも具体的な記録が残されている。洪洞県の地方誌によれば、「明の洪武・永楽の両朝において、政府はたびたび山西から滁州・河北・北京・山東・河南・保定などの地へ人々を移住させ、これらの地域を人口集中の拠点へと変えていった」とある。これは中国史上最大規模の官主導による人口移転であり、洪武初期から永楽十五年に至るまで、実に五十年にわたって継続されたものであった。 なお、こうした移転の動機については数多くの民間説話が伝えられており、なかでも広く流布しているのは「胡大海の復讐」の故事と「淮慶府三度の清掃」の説である。伝説によれば、元末、貧困に追い込まれて身を落とした胡大海は乞食となり、河南省一帯の村々を流浪して回ったという。
