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移住の歴史―洪洞からの移住の理由

2018-01-09


洪洞県の人口移転の理由 明代における人口移転については、非公式な史料や民間伝承がそれを証言しているだけでなく、正史にも具体的な記録が残されている。洪洞県の地方誌によれば、「明の洪武・永楽の両朝において、政府はたびたび山西から滁州・河北・北京・山東・河南・保定などの地へ人々を移住させ、これらの地域を人口集中の拠点へと変えていった」とある。これは中国史上最大規模の官主導による人口移転であり、洪武初期から永楽十五年に至るまで、実に五十年にわたって継続されたものであった。 なお、こうした移転の動機については数多くの民間説話が伝えられており、なかでも広く流布しているのは「胡大海の復讐」の故事と「淮慶府三度の清掃」の説である。伝説によれば、元末、貧困に追い込まれて身を落とした胡大海は乞食となり、河南省一帯の村々を流浪して回ったという。

  洪洞からの移住の理由

  明代の人口移転については、非公式な史書や民間伝承にとどまらず、公的な正史にもその記録が残されている。洪洞県の地方誌によれば、「明の洪武・永楽の両朝において、政府はたびたび山西から滁州・河州・北平・山東・河南・保定などの地へ人々を移住させ、これらの地域を人口集中の拠点とした」とある。これは中国史上最大規模の国家主導による人口移動であり、洪武初年から永楽十五年に至る五十年にわたって行われたものである。なお、こうした移転の理由については数多くの俗説が伝えられており、なかでも広く流布しているのは「胡大海の復讐」および「淮慶府三清浄」の二つである。

  伝説によれば、元朝末期、貧しさに追われて乞食に身を落とした胡大海は、河南省の村々を次々と流浪した。彼は力強くたくましい男だったが、働かずただ食べ物を乞うばかりであるのを見て、人々は彼を相手にせず、中には嘲り、辱めることさえあった。飢えに苛まれ、自尊心も深く傷ついた胡大海は、ひそかに復讐を誓い、自分に加えられた不遇を晴らすことを決意した。

  のちに、胡大海は朱元璋の反乱軍に加わった。戦場での勇猛さから、たちまち朱元璋の信頼する将軍の一人となった。朱元璋が明王朝を建て、功臣らに厚い恩賞を授けた際も、胡大海はこれを固く辞した。不思議に思った朱元璋がその理由を問うと、胡大海は河南での自らの苦難の経験を語り、皇帝に許されて故郷へ帰り、仇討ちを果たしたいと懇願した。朱元璋は困惑した。拒めば功労ある老将であるし、承諾すれば、すでに多くの人命を奪っているのだ。長く迷った末、ひとつの策を思いついた。胡大海の仇討ちは許すが、その代わり「一矢の地」を与える――すなわち、矢を放ち、その矢が着弾した土地を彼の領地とするのである。これを受け、胡大海は兵を率いて河南へ進軍した。弓を引き、矢を放つと、その矢は野雁の尻を真っ直ぐに貫いた。傷ついた鳥は矢を抱えたまま前方へ飛び去り、胡大海は麾下の兵を率いて追撃、河南・山東・河北の各地を縦横に駆け巡り、血の跡を残して生き物をひとりも残さぬままに追い詰めた。朱元璋がこの事態を知ったときには、もはや手遅れであった。やむなく、山西の洪洞から、人里離れた荒涼たる地へ人々を移住させるよう命じた。

  古代、河南省の修武・武陟の西方および黄河の北に広がる一帯は、懐慶府と呼ばれていた。元末、天下に混乱が広がるなか、朱元璋の反乱軍は懐慶府の支配をめぐって元軍と攻防を繰り返した。ある日は反乱軍が攻勢をかけ、翌日には元軍が反撃に転じるという具合だった。農民軍が進撃するたび、地元の民衆に命じて自宅の戸口に自らを支持する旨を記した看板を掲げさせ、また元軍が到来すれば、その旗印を支持する旨の幟を掲げることを強いた。こうした絶え間ない攻防に疲れた民衆は、苦肉の策として、看板の表側には「農民軍を支持せよ」、裏側には「元軍を支持せよ」と書き記すことにした。これなら、どちらの勢力が押し寄せてきても、看板をひっくり返すだけで済むからである。 あるとき、再び農民軍が攻勢をかけた折、たまたま一枚の看板が名将・常遇春の馬の前へと落ちてきた。常遇春はたちどころにその策略を見抜いた。激怒した彼は軍を率いて懐慶府へと進軍し、一帯で三度にわたり大規模な討伐作戦――すなわち三度の虐殺――を展開した。こうして懐慶府は、「懐慶三清」という悪名高い異称を得た。戦いが終わるころには、住民はほぼ皆殺され、生き残った者たちもやがて洪洞の大槐樹の地へと移住させられた。

  元朝末期、政府の腐敗と残虐な統治が横行し、黄河や淮河の大規模な洪水が相次いで発生したことで、民衆は反乱に立ち上がった。農民の蜂起が次々と起こり、戦乱は日常の風景となった。中原一帯は長期間にわたり紛争に包まれ、上述の二つの特異な伝説は、こうした歴史的現実を鮮明に映し出している。

  人口移動の背景には、「人間を食い尽くす赤い虫」にまつわる民間伝承も存在する。伝えられるところでは、明代に山東・河南・河北の各地がこの「赤い虫」の猛威に見舞われ、住民はことごとく食い尽くされたという。実際には、これは燕王・朱棣と建文帝との皇位をめぐる争いである「靖難の役」を指している。燕王の軍勢が赤い頭巾を身につけていたため、「赤い虫」と呼ばれるようになったのであり、この呼称には戦乱の混乱を忌避する庶民の心情が反映されていた。この争いは四年にわたり、燕王の勝利によって終結した。しかし、主戦場であった中原一帯は再び戦禍に見舞われ、かえって「広大な田畑が荒廃したまま放置される」という暗鬱な光景を一層深刻なものとした。

  元末明初の数十年にわたる戦乱の後、かつては人口が密集し、繁栄と富を誇っていた中原地域は深刻な荒廃に見舞われ、「数百里にわたり荒涼たる地が広がり、人の住む跡もほとんどない」と形容されるほどになった。これに対し、山西省はその地理的条件などの要因により、「国境が安定し、人口も多く繁栄している」平穏な風土を保ち続けた。そのため、人口がまばらで広大な山西から、より人口は多いものの土地の肥沃度が低い中原へと農民を移住させることが急務となった。

  山西省の人口は主に南部および南東部に集中しており、なかでも洪洞県は南部で最も人口が多い。交通の便が良く、その他の好条件も相まって、自然と移住の主要な目的地となり、移民の一大拠点となっている。

 

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洪通の大イチョウ