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杜姓

2018-01-31


杜姓は、紀氏に由来し、始祖は子都である。現代中国の姓のうち、第216位に位置する。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県を本貫とする杜氏の先祖らが、洪洞の大槐樹の下で皇帝の勅命により一帯に他地域へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・安徽・江蘇・山西など各地に広がった。杜姓の最も古い記録は、南宋時代の『姓苑』に見られる。【姓の起源】主な源流は二つある。①一つは、羋氏に由来するもので、『広韻』によれば、春秋時代、楚国の王子・田が杜という地に封じられ、杜君と称されたことから、その子孫が杜姓を称するようになったとされる。②もう一つは、紀氏に由来するもので、胡三省注『資治通鑑』にも記されている。

杜姓は、紀氏に由来し、始祖は子都である。現代の中国の姓のうち、第216位に位置する。明代には、平陽府の洪洞県および趙城県を本貫とする杜氏の先祖らが、洪洞の大槐樹の下で皇帝の勅命により一帯となって他地域へ移住した。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・安徽・江蘇・山西など各地に広がった。杜姓に関する最も古い記録は、南宋時代に編纂された姓氏総覧『姓苑』に見られる。

【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。① それは「米」氏に由来するものである。「広韻」によれば、春秋時代の楚国には公子田という貴族がおり、杜邑に封じられて杜公と称された。その子孫もまた杜を姓とした。② もう一つは「姬」氏に由来するものである。「資治通鑑」胡三省注および『姓源』に記されるところでは、春秋時代の初期、鄭国の重臣に公孫黒という人物がおり、字を子都といった。当時、その抜群の美貌と並外れた膂力で名を馳せ、鄭の庄公から寵遇を受けた。その恩に驕り、横暴な振る舞いに至った。あるとき、庄公が軍を率いて許国を攻めると、大夫の穎考叔が勇猛果敢に先陣を切り、城壁を制圧した。すでに穎考叔と不和であった公孫子都は、彼が最初の戦功を挙げたのを見て嫉妬を禁じ得ず、やむなく背後から密かに矢を放ち、穎考叔を射殺した。穎考叔は庄公の最も信頼する側近の一人であったため、庄公はその早すぎる死を悼み、刺客の捜索を命じた。穎考叔の葬儀の席で、庄公は巫者に命じて犯人への呪詛を唱えさせた。迷信の強かった当時、精神的負担の大きかった子都は、穎考叔の怨霊が自らの命を狙って現れるのを幻視し、ついには狂気に陥って死去した。その後、子孫たちは王族の「姬」姓を名乗ることを恥じ、父の名である「杜」をもって家名とした。

【氏族の起源】杜姓の主要な発祥地は溧陽郡である。溧陽郡は、西漢時代に溧陽県が設置され、北魏の時期に溧陽郡へと改編された。その位置は河南省中部の浚県一帯にあたり、おおよそ晋代の頓丘郡の領域に相当する。

【氏族館】杜姓の主要な氏族館は、鴻臚館である。鴻臚館:宋代において、杜匡は鴻臚卿を務め、梓州運使に任ぜられ、四川の一州四十五県の政務を統轄した。彼は数々の輝かしく称賛に値する功績を挙げた。

【堂聯】杜氏の主要な対句には、次のようなものがある。「西使録を撰す」(杜牧)、「豆腐官と称す」(杜審言)、「開国功臣」(杜畿)、「高位に進爵す」(杜傑)、「宰相の出入」(杜微朝)、「外国使節との雑談」(杜遂)などである。

【著名人物】『中国姓氏大辞典』には杜姓の項目が12件収められ、『中国歴代人名大辞典』には19件が掲載されている。杜姓を名乗った歴史上の人物たち。

西漢の時代には臨淄侯・杜吉がおり、秦の時代には杜桂が、宋の時代には丹陽の出身で徽州の教授であった杜禹が、明の時代には衛州の出身で南京の兵部尚書であった杜傑および、かつて山西按察使を務めた杜仁がいた。

【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には杜姓の人口が4,724人おり、そのうち臨汾市に462人、洪洞県に4人である。

【祭壇櫃】杜氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第1号祭壇櫃に祀られている。【家譜】杜氏の主要な家譜には、以下のものが含まれる:「溧陽杜氏第四次修訂族譜 二十巻」(人民大学)、「阜城衛杜氏族譜 八巻」(中国国家図書館)および「阜城衛杜氏族譜 八巻」(中国国家図書館)。

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洪通の大イチョウ