移民文化
三番目の系譜に当たる徐承興は、洪武年間に太原府汾州東村から曹県北西の李楼へ移住した。徐金弟と徐彌弟は洪洞から湖北の徐堤へ移った。徐元昭は明初に、?より曹県北西の徐集泉へ転居した。徐鳳は洪武年間、洪洞から曹県北西の劉楼へ来た。また、同じく洪武年間に徐二老が洪洞から曹県北の徐集へ移住した。徐英祥は洪武期に、洪洞から曹城北二十四里の徐集へ移った。徐清は永楽二年に、洪洞から清河の徐家荘へ転居した。徐玉臣は洪洞から修武の徐屯へ移った。徐元隠は洪武二年に、洪洞から運城の八里河へ転出した。以上は王文廷『洪洞移民始祖表』より抜粋したものである。
朱承は洪武三年に洪洞から曹県北西の楊花園へ移り住んだ。朱遵道は洪武三年に洪洞から定陶の房山の前にある朱老荘へ転居した。朱洪禄は洪武年間に洪洞から曹県北西の朱瓦へ移住した。朱浩興義および朱浩恒児はいずれも洪武元年に洪洞から母に従い、曹県西部の朱荘へと来た。朱海は洪武年間、洪洞から移って商丘の北部・朱老家に定住した。朱和は洪武三年に洪洞から商丘の北二十里にある朱寨へ移った。朱光は成化元年に洪洞から曹県北西の朱屯へ移住した。宋氏に嫁いだ朱良興義は洪武二年に洪洞から曹県北西へ移った。次男の朱虎通は南朱荘へ転居し、父は山西へ戻った。朱彦は明初、高平の馬村から霍家の朱荘へ移った。朱世老(元順帝の治世)
趙新宗は明の初期に洪洞から河南・鞏義へ移住した。趙成には傅・震・英・忠の四子があり、洪武年間に洪洞から鞏県へと移った。趙居武は洪武初年に洪洞・東門里から曹県・北門外へ転居した。趙成賢は弟の趙志傑とともに、洪武初年に洪洞・東門里から曹県・西趙廟へと移った。孫氏・范氏に嫁いだ趙有良は、息子の祥を連れて永楽二年、洪洞から河南・宜良の東北端へと移住した。李氏に嫁いだ趙良宇は、二代目の孫・成と三代目の孫・明を伴い、洪武年間に洪洞から定陶・易強王村の西方・趙崗へと移った。趙宗元は永楽元年に洪洞から河南・宜豊へ移住した。趙和美は洪武二年に洪洞から曹の西北五十里にある趙荘へ移った。趙伯林は永楽七年、太原府・清源県から東へと転居した……
張新安は洪武年間に洪洞から曹県北西部の張新安村へ移住した。張九老は明初に洪洞から曹県北西部の東四へ移った。張志山とその妻・喬には、息子の栄と三人の孫がおり、彼らは洪武年間に洪洞から曹県北西部の東三張へ再定住した。次男の張有道もまた、洪武年間に洪洞から曹県北西部の白塘へ移住した。張老普は明初に洪洞から曹県西部の張舗寨へ移った。張徳光は母を伴い、洪武年間に洪洞から曹県北西部の西大荘へ移住したが、当初は楊姓であった。張徳順もまた母とともに、洪武年間に洪洞から曹県北西部の張大楼へ移った。張伯基は明初に洪洞から曹県西部の龍王廟へ移住した。張世元は明初に洪洞から曹県北西部へ45里の距離を移った。張斗は洪武三年に洪洞から曹県内の張呂へ移住したが、これも洪武年間のことである……
楊大剛は、孫のセンを伴い、万暦年間に洪洞より曹の西北にある楊荘へ移住した。楊希賢は、洪武三年に代州より洪洞を経て、曹の西北に位置する大陽口へと移った。楊福は、洪武二年に洪洞より曹の西北六十里の東楊荘へと転居した。楊姓の楊孝増には、文選・文曜・文興の三人の孫があり、彼らは洪武十五年に洪洞より陝県の東楊窩へと移った。長男の楊守仁は、洪武二年にやはり洪洞より陝県の東部へと出奔し、翌年には曹へと移った。次男の楊守義もまた、洪武二年に洪洞より陝県の東部へと去り、翌年には曹へと転居した。三男の楊守礼も同様に、洪武二年に洪洞より陝県の東部へと旅立ち、翌年には曹へと移った。四男の楊守信もまた、洪武二年に洪洞より陝県の東部へと出発し、翌年には曹へと移住した。
