ふるさと文化
シュアン姓
2018-02-01
その系譜は周の文王にまで遡り、始祖は周の宣王、その子の利、そして宣伯である。明代には、洪洞の大槐樹から移住した宣氏の先祖たちは、もともと平陽府・洪洞県・趙城県など各地に戸籍を置いた。明初、朝廷の勅命により、彼らは洪洞の大槐樹一帯に集められ、さらに各地の遠方へと移り住んだ。清末には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・遼寧・黒竜江・山西など広く分布するに至った。宣姓について最も古い記録は、東漢の文献『風俗通・氏姓篇』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に三つの源流がある。① 姬氏に由来するものである。「風俗通義」によれば、周の厲王には景という子がおり、父の後を継いで四十六年にわたり在位し、その治世において王朝を再興したと称された。民はその徳を慕い、没後には諡号として周の宣王と追尊された。その傍系の子孫のうち、宣を姓とした者もあった。② 子氏に由来するものである。「呂氏春秋」に記されるところでは、春秋時代、宋国の君主で名を李といい、在位十六年を経て諡号を宣とした。その子孫もまた、宣を姓とした。③ 叔孫巧如の系統に由来するものである。「通志・氏族略」によれば、春秋時代、魯の桓公の五代目の孫に当たる叔孫巧如は、魯の成公の下で重臣の一員として仕えた。彼は季孫・孟孫の両氏を排除するクーデターを企てたが、計画が漏洩してしまい、やむなく魏国へ逃れ、卿の位に就いた。死後、諡号として宣伯が贈られ、その子孫は以後、宣を姓とした。
【氏族の起源】玄姓の主要な出自は、石平郡および東郡である。石平郡については、晋の泰始三年(西暦267年)、旧扶風郡の一部が再編されて石平郡となり、その管轄区域はおおよそ現在の陝西省咸陽市および鄠県に相当する。その治所は槐里に置かれた(現在の陝西省興平県南東部)。
【氏族館の名称】 玄姓の主要な氏族館は、高潔館と雲陽館である。いずれも、玄氷の高潔な操守に由来する。西漢の時代、玄氷は幼い頃から高潔な徳行を示していた。王莽が漢の皇位を簒奪し、彼を官に召すよう命じた際も、彼はこれを辞した。光武帝が王朝を再興した後、玄氷は御史大夫に任ぜられた。彼は極めて質素な生活を送り、あるとき光武帝が自宅を訪れた際、玄氷を称えてこう述べた。「楚国の二公兄弟といえども、雲陽の玄巨公には及ばない!」 その後、光武帝は絹・穀物・帷幕・家具などの賜物を下賜し、さらに大司空に任命した。玄氷は雲陽の出身であったため、やがて「雲陽の玄巨公」と称されるようになった。
【堂額対聯】玄氏の主要な堂額対聯は次のとおりである。「高潔の気概を湛える偉丈夫」(玄炳)、「岩山に隠棲する南中の人」(玄明)。「徳は心に重くのしかかる」(玄炳)、「才は彼を徳の模範たらしむ」(玄増)。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には「玄」姓の例が16件収められ、『中国歴代人名大辞典』には24件が記されている。歴史上の「玄」姓の人物としては、漢代に燕の丞相を務めた玄意、西漢の南安侯・玄護、晋代の玄彬、三国時代の魏において主簿を務めた玄龍、宋代には長汀出身の玄明のほか、著名な画家である玄景や礼部博士の玄増が挙げられる。また、明代には会稽出身の玄文や中書省の官吏・玄思宗がみられる。
【人口】第四回全国人口センサスの結果によると、山西省には姓「玄」の人が3,493人おり、そのうち臨汾市に130人、洪洞県に22人がいます。
【祭壇厨子】玄氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第2号祭壇厨子に祀られている。
【系譜学】宣姓の主要な系譜資料には、江蘇省江陰県集陽郷玄天の「宣氏族譜四巻」(北図書館所蔵)および浙江省鄞県馬路の「宣氏族譜一序四巻」(天一閣所蔵)が含まれる。
【輩行名】中華民国三年、宣恩茂らが『宣氏族譜』を編纂した。浙江省嘉興の宣姓の一派においては、輩行名の順序は次のとおりである。「福 彬 喜 宗、安 永 忠 魁、迪 常 寧 段、英 科」。
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洪通の大イチョウ
