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ナンヤン・ホアイ・シュウ・ワン

2024-07-09


ナンヤン・ホアイ・シュウ・ワン

伝説によれば、明の初期、数万人もの移住者が南陽に到着した後、当局は一人当たり十五畝の耕地と二畝の菜園を割り当てると定めたという。しかし実際には、当時の南陽は肥沃な田畑と広大な平野が果てしなく広がる土地であり、誰がその地を開墾し耕作できるかによって、その土地を自らのものとして主張した。そのため、新来的な人々はあわただしく動き回ることになった。ある家では牛を引いて溝を耕し、周囲を一巡して大きな区画を示すことで、それを自分のものだと宣言した。またある家では木杭を地面に打ち込み、そこに自らの名を刻んで、その区画への所有権を主張した。さらに別の家では、区画の外縁に作物を植え、内部は後日のために残しておくといった方法も見られた。こうして洪洞からの移住者たちは、南陽の広大な土地を次々と開墾し、やがて定住していったのである。

洪洞から南陽へと移住した人々の流入は、各地の府・県にわたって人口増加をもたらした。明の洪武二十四年には、この地域の総世帯数は14万8千に達し、その人口は9万1,200余人に上った。明代中期には、南陽の官民の耕地は18万6,900頃にまで拡大し、夏税は4万3,000斗に及んだ。同時に、移住者たちは銅・黄鉄鉱・鉛銀鉱石・石炭などの鉱床も開発した。こうした新たな入植者の流入により、南陽は次第に昔日の繁栄を取り戻していった。伝えられるところでは、明初期に洪洞から南陽へ移り住んだ人々が一株の槐を植えたという。清初には、その木は高く大きく育ち、幹が著しく曲がっていたため、「曲がり槐」と呼ばれるようになった。やがて、その木の下は南陽有数の市場へと発展し、清代の乾隆年間には、偶数日ごとに開かれる二日市がすでに定着していた。その後、人々は…… 「Wan」が誤って「wan」と記されたため、淮樹湾はやがて淮樹湾街と呼ばれるようになり、のちには地元の人々によって単に古淮鎮と呼ばれるようになった。

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洪通の大イチョウ