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姓の「司馬」
2021-05-25
その系譜は帝顕祐にまで遡り、創始祖は程伯林富である。明代には、洪洞県および平陽府の洪洞県・趙城県などの各地を起源とする司馬氏一族が、洪洞の大槐樹遺跡から各地の遠方へと大規模に移住させられた一派に属していた。清代末期には、その子孫は河南省・山東省・河北省・北京市・天津市・陝西省・甘粛省・安徽省・江蘇省・湖北省・山西省など、広く各地に分布するに至った。
司馬姓に関する最も古い記録は、東漢の著作『風俗通・姓氏篇』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。① 官職名に由来する姓として発祥した場合である。「通志・氏族略」および「周礼・夏官・司馬」によれば、古代において軍の最高指揮官は司馬と称され、その職は周代に初めて出現した。周の宣王の時代、顓頊の末裔である程伯林が王師を統率したと伝えられる。徐夷征伐の戦いにおいて、程伯林は御輿に乗って勇猛果敢に進撃し、圧倒的な勝利を収めて凱旋した。これを受け、宣王は彼を司馬に任じ、以後もその官職名が継承されて官職名として定着した。その子孫たちは、先祖の官職名を姓として受け継ぎ、司馬という複合姓を形成した。春秋時代には、宋・衛・斉などの諸国の有力氏族の者たちもまた、司馬の称号を氏名として採用し、これにより司馬という複合姓が成立した。② また、姓の改称によって生じた場合もある。『魏書』および『北史』によれば、晋の元帝はもともと牛姓であったが、司馬姓を称し、また許穆之も姓を司馬に改め、字を飛龍としたほか、郝士彦も司馬姓をとり、字を康之としたと記されている。
【氏族の本貫】司馬姓の主要な本貫は河南郡である。河南郡は楚漢交替期(紀元前3世紀末)に設置され、おおよそ現在の河南省における黄河北岸一帯に相当する地域に位置していた。その行政の中心は淮県に置かれ、現在の河南省武陟県の南西に当たる場所にあった。
【堂号】司馬氏の本堂の名称は「太史堂」である。太史堂:漢代には、父の司馬談と子の司馬遷がともに太史令に任ぜられ、司馬遷は父・司馬談の後を継いで『史記』の編纂を成し遂げた。
【家門の対句】司馬姓にまつわる代表的な対句には、次のようなものがある。「龍門の名史家」(司馬遷)、「洛邑の大宰相」(司馬光)。「聖学の高士」(司馬牛)、「水経の大家」(司馬徽)。「徳行の賢人」(司馬牛)、「洛邑の重鎮」(司馬光)。「勤学により功を積む」(司馬光)、「橋に刻まれた大志」(司馬相如)。「歴史に比類なき遺業を残す」(司馬遷)、「雲にまで昇る詩篇を詠ず」(司馬相如)。「龍門の金石の至宝」(司馬遷)、「蘇水の深き淵より出でし貴種」(司馬光)。「使節として誉れ高く、妻の恥を雪ぐ」(司馬相如)、「貧民を救いながらも娘を支え、惜しみなく嫁入り道具を備える」(司馬丹)。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には司馬姓の記載が263件あり、『中国歴代人名大辞典』には188件が収められている。歴史上の司馬姓の人物としては、秦末に斉王・司馬欣、漢代には文人の司馬相如、春秋時代には孔子の弟子で宋国の司馬牛、漢代には史家の司馬遷、南北朝時代には北魏の梁州刺史を務めた司馬仲明、北斉には司馬子如、唐代には台州出身の司馬子微、宋代には『資治通鑑』の著者である司馬光、明代には江寧出身の司馬隆などが挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には司馬姓の者が297人おり、そのうち臨汾市に34人、洪洞県に3人がいる。
【祭壇厨子】大槐樹の下にある宗祠の第10号祭壇厨子には、司馬氏の先祖牌が祀られている。
【系譜学】司馬氏の主要な系譜資料には、『司馬氏清流系譜六巻』(北方図書館)が含まれる。
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洪通の大イチョウ
