ふるさと文化
チウ姓
2019-04-25
その系譜は紀氏に遡り、始祖は少皞と丘胡である。丘胡の姓についての最も古い記録は、南宋時代に編纂された『姓源』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に四つの源流がある。① 古代の皇帝・少昊の子孫に由来する。『路史』によれば、少昊は「金天の君」と称され、古代において「金天」とはすなわち秋を指す別称であった。少昊の子孫の一部が、季節を表す称号を用いて「秋」を姓とした。② 職掌に基づく姓に由来する。周代には、司法および法の執行を司る官職を「秋官」と称し、刑事事件や司法監督を統括していた。その子孫の一部もまた「秋」を姓とした。③ 姬氏に由来する。『姓源』に記されるところでは、春秋時代の魯国に、学識深いものの母が高齢であったため遠出を恐れていた人物・丘胡という者がいた。これをみて母は、妻を迎えるよう勧めた。丘胡は母の言に従い妻を迎えたが、婚礼からわずか五日後に家を出て陳国へ赴き、その才覚により高位の官職にまで昇った。五年後、老母と妻を迎えに帰郷した際、村の入口に差し掛かったところ、林の中で桑の葉を摘む若い女性の姿を見た。その一挙手一投足は実に魅惑的で、丘胡は思わず近づいたが、彼女は振り返り、桑の茂みの中に消え去った。家に戻ると、母が蚕を飼っていた。再会の喜びと悲しみに胸を打たれ、二人は抱き合って涙を流した――そのとき、突然妻が戻ってきた。一目見ただけで、両者は愕然とした。林で桑を摘んでいたその女性こそ、まさに丘胡の妻だったのだ。夫であることを悟った妻は、出世を求めて長年自分を置き去りにしてきたこと、そのために母が大きな苦労を強いられたこと、さらには不作法で女性を誘惑した行為について激しく責め立てた。怒りを吐き終えると、彼女は玄関から飛び出し、丘胡が我に返って追いかけたときには、すでに川へ身を投じていた。恥と悲嘆に打ちひしがれた丘胡は深く悔い改め、以後は勤勉に励むことを決意し、やがて名臣として名を馳せた。その子孫は、彼の名に因んで「秋」を姓とした。④ 丘胡子の子孫に由来する。『姓源』によれば、春秋時代の魯国において、丘胡子の子孫の一部が「秋」を姓としていた。
【氏族の起源】邱姓の主要な出自は天水郡である。天水郡は西漢の元鼎三年(紀元前114年)に初めて設置され、現在の甘粛省天水・隴西の東側に相当する地域に位置した。その行政中心地は平襄(現在の甘粛省通渭県西北部)に置かれていた。
【氏族会館】邱姓の代表的な氏族会館は、剣湖会館である。剣湖会館:清朝末期、革命烈士で「剣湖の女侠」として知られる邱瑾は、徐錫麟と謀って蜂起を計画したが、その計画が露見し、処刑された。彼女は現代の英雄として称えられている。
【家訓対聯】邱氏の代表的な対聯には、次のようなものがある。「厳正なる官吏にして民に慈しみ、経書に通じて博学多才」(邱雲)、「徳と才を兼ね備え、名高い賢臣」(邱英)、「貞節を堅く守る養蚕の女」(邱虎)、「義のために身を投じて死す」(邱瑾)、「魯の旅人にして、陳の客たる者」(邱虎)。
【著名な人物】『中国姓氏大辞典』には邱姓の人物が二人記されており、『中国歴代人名大辞典』には五人が掲載されている。歴史上の邱姓の人物としては、春秋時代の魯国の官吏・邱胡、南唐の才女・邱水、明代の名妓・邱湘ならびに睢寧県令を務めた邱鳳清、清代の著名な女性革命家・邱金、そして宋代の中書舎人(古代の官職名)・邱当などが挙げられる。
【輩行名】中華民国18年秋、志遠は『邱氏族譜』を編纂した。姜公武を祖とする邱氏の支派において、輩行名の順序は「賢 大 永 甄、士 家 賢 良」である。
【祭壇櫃】祖廟の六号祭壇櫃には、大槐樹の下に安置された邱氏の先祖位牌が祀られている。
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洪通の大イチョウ
