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ユエ姓

2019-04-18


岳姓は姒氏に由来し、その始祖は無余である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する岳氏一族が、皇帝の勅命により一帯にわたって他地域へ移住させられ、その集合地点は洪洞の大槐樹とされた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・山西など各地に広がった。岳姓に関する最も古い記録は、周代の文献『世本』に見られる。【姓の由来】この姓の主要な出自は二つある。① 姒氏に由来するものである。『百家姓総覧』によれば、大禹が没した後、その遺体は会稽山(現在の浙江省紹興市南部)に葬られた。その子・夏后啓は同山に宗廟を建立して父を祀り、のちに少康王は次子・無余に会稽の封地を与え、岳国の君主として大禹祭祀の監督を命じた。以後、無余の子孫から越国が成立した。

岳姓は司氏に由来し、その始祖は武宇である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する岳氏一族が、王朝の初期に洪洞の大槐樹の下へ集められ、他地域への移住を命じられた人々の一つであった。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・山西など各地に広がっていた。岳姓に関する最も古い記録は、周代の文献『世本』に見られる。

【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。①司氏に由来するものである。「諸姓総譜」によれば、大禹が没した後、その墓は会稽山(現在の浙江省紹興市南部)に葬られた。息子の夏后啓は、父を祀るため同山に宗廟を建立した。その後、少康王は次男の無余を会稽に封じて越侯とし、大禹に捧げる祭祀を委ねた。無余の子孫はやがて越国を興し、春秋時代には越王勾践が長江以南の地域で二度にわたり覇権を握った。越国は諸侯国の中でも最も長く存続した小国であった。劉邦が漢王朝を建てた際も、無余の子孫に越王の爵位を継承させ、その特権は漢武帝の代に至るまで、実に1,959年にわたり存続した。越国の滅亡後、越王の子孫たちは越を姓として受け継いだ。②ほかの民族が改姓して生じたものもある。「魏書」の「官職志」に記されるところでは、鮮卑の悦勒・悦強両氏族が中原へ進入した後、ともに漢姓の「越」を採用したと伝えられている。【氏族の本貫】越姓の主要な本貫は晋陽県である。晋陽県は春秋時代には晋国の都であり、のちには趙国の晋陽邑となった。漢代には県制が敷かれ、太原郡の治所として機能した。今日では山西省太原市に相当する。

【堂号】岳姓に由来する代表的な堂号は「神智堂」である。神智堂――春秋時代、斉国の岳施父は徳行高く名を馳せていたが、無実の罪で捕らえられ獄中にあった。斉の宰相・晏嬰は、彼の車の左側の馬を買い取って身代金とし、釈放したうえで、自らの車に乗せて帰宅させた。ところが、岳施父はこれに対して恩義を示すどころか、次のように言って晏嬰との関係を断つ決意を固めた。「私は聞くところによれば、高潔な君子は、自分を知らない者には決して屈しないものであり、一方で真の知己には、その才覚を存分に発揮する機会を与えねばならないのだ。私が獄に繋がれたとき、誰も私のことを知らず、あなたは自分の馬を売って私の身を救った――それによって、あなたは今や私を知っているということになる。もし知己としてなおも私を十分に尊重してくださらないのなら、むしろ獄中に留まっていたほうがよかったのではないか!」こうして、晏嬰は彼を賓客として厚く遇したのである。

【堂聯】岳氏の主たる対句は次のとおりである。「宰相の高賓」(岳師府)、「太守の清名」(岳郊)。「仁義の声、梁州に響き渡る」(岳志)、「北海の節操、称えられたり」(岳郊)。

【著名な人物】『中国歴代人名大辞典』には「岳」姓の例が六件収められ、『中国人名大辞典』には四件が記されている。歴史上の「岳」姓の人物としては、春秋時代に斉国の岳施父、漢代には清廉で自らを律することに長けた北海太守・岳郊、梁代には梁州刺史として民治に功績を挙げた岳質、宋代には岳毅、さらに明代には貴陽出身で河南総督を務めた岳起捷などが挙げられる。

【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には岳姓の人が289人おり、そのうち臨汾市には19人いる。

【祭壇厨子】岳氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第6号祭壇厨子に祀られている。

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洪通の大イチョウ