ふるさと文化
ジー(jí)姓
2018-11-29
この家系は紀氏に由来し、初代の始祖は紀子である。明代には、洪洞の大槐樹から移住した紀氏の一族は、もともと洪洞県平陽府および趙城県に戸籍を置いた。明初、朝廷の勅命により、洪洞の大槐樹の地に集められ、各地へ移り住んだ。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・陝西・安徽・江蘇・山西など広く分布した。紀姓に関する最も古い記録は、東漢の『風俗通・姓氏篇』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。① まず、紀氏に由来するものである。「風俗通」の「姓氏篇」によれば、春秋時代、衛の宣公は享楽を好み、放蕩な人物であった。まだ太子であった頃、父の側室・夷姜と密通し、その間に子・汲が生まれた。宣公は即位後、汲を太子とした。やがて汲が成人すると、宣公は斉の僖公の娘・宣姜を娶らせた。ところが、宣姜が衛へ到着した際、その美貌に心を奪われ、自らの側室として迎え入れた。彼女は宣公に、寿と朔という二人の男子を産んだ。新たな妻を得た宣公は、汲を煩わしい存在と見なし、彼を廃して寿を新たな太子に立てようと考えた。しかし、汲は温和で孝行深く、非難の余地はなく、さらに寿も生来慈愛に富んでいたため、宣公はなかなか決断できなかった。ところが、寿の弟・朔が宣公の企てを知ると、母・宣姜とともに汲を排除する計画を練った。ある日、汲の誕生日にあたり、寿と朔は祝宴に赴いた。宴がまだ終わらぬうちに、朔は宮中に戻り、宣姜に泣きながら訴えた。「汲は甚だ無礼な振る舞いを致しました。酔った勢いで私を『我が子』と呼びました。これに激怒した私は一時口論となりましたが、彼はこう言い放ちました。『お前の母はかつて私の妻であった。あなたが私を父と呼ぶのは当然だ』と。これを聞いて、宣姜は恥と怒りにかられ、宣公に訴えました。激怒した宣公は夷姜を召し出し、息子を正しく育てなかったことを厳しく責めたのです。すでに寵愛を失っていた夷姜は、生きる望みを見いだせず、その夜、自ら首を吊って命を絶ちました。なおも怒りの収まらない宣公は、汲を斉への使節として派遣し、道中で暗殺させようと企てたのです。宣公の謀略を察した寿は急いで汲に警告し、一刻も早く逃げ出すよう促しました。しかし汲は答えました。「父の命に背くなど、親不孝の極みです。それに、私が逃げれば、父の過ちは必ず他者に知られ、父の恥がさらされるでしょう」と。逃亡を拒んだ汲に対し、やむを得ず寿は汲を酒に酔わせ、自らの船に乗って出航し、身代わりとなって死ぬことを選びました。一方、宣公が差し向けた刺客たちは事態を誤解し、汲と思い込んで寿を殺害してしまいました。やがて汲が醒めて船が消えたことに気づき、寿が自分の身代わりとなって犠牲になったことを悟ると、夜を徹して寿の救出に向かいましたが、結局、同じく殺されてしまいました。汲の孝行と兄弟愛に満ちた exemplary な行いは、古来より史家によって模範とされており、その子孫は彼の名に含まれる「紀」の字を姓として採用しました。② もう一つは、姜氏に由来するものである。「呂氏春秋」によれば、春秋時代、斉の宣公の子孫は紀(現在の河南省済源市済源県)に封じられ、その後、その封地の名である「紀」を姓としたと伝えられている。
【氏族の起源】紀氏の主要な出自は、清河郡・濮陽郡・西河郡である。清河郡は、漢高祖五年(紀元前202年)に設置され、現在の河北省清河から山東省臨清に至る一帯を管轄していた。
【氏族館】紀氏の主要な氏族館は東海館である。東海館:漢代において、紀安は景帝の下で太子太傅を務めた。武帝の時代には東海太守に任ぜられ、その治政が極めて善かったため、民は豊かになり、土地は平和を享受した。後に召されて長史・衛尉となり、朝廷からは国家に忠誠を尽くす忠臣として称えられた。
【堂聯】紀氏にまつわる代表的な対句は、次のとおりである。「漢朝の朝廷はその剛直を称えた」(紀安)、「兗州の官は孤児を匿った」(紀何)。「霜雪にあって忠臣なり」(紀安)、「雲天の下に義士あり」(紀固)。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には「季」姓の例が二つ記されており、『中国歴代人名大辞典』には四つ掲載されている。歴史上の「季」姓の人物としては、漢代の濮陽出身で景帝の皇太子太傅を務めた季安、南北朝時代の北魏・梁城出身で兗州の官僚であった季固、ならびに宋代の季京などが挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には姓「季」の人が107人おり、そのうち臨汾市に1人、洪洞県に1人がいます。
【祭壇厨】大槐樹の下にある宗祠の第5号祭壇厨には、紀家の先祖牌が祀られている。
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洪通の大イチョウ
