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姓から

2018-07-25


その系譜は周の平王にまで遡り、宗公を始祖とする。明代には、洪洞の大槐樹から移住した人々は、もともと平陽府・洪洞県・趙城県などの地域に戸籍が編入されていた。明の初期には、各地への移住に際して、洪洞の大槐樹の地に集結するよう命じられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・山西など、広く各地へと分布した。この姓の最も古い記録は、南宋時代に編纂された『姓源』に見られる。【姓の由来】この姓は、姬氏に由来する。『元和姓纂』によれば、東周時代、周の平王の末子で才智に優れた貴族が、聶国に封ぜられ、以後聶侯と称されたことから、その子孫が聶姓を称するようになったという。秦末、楚漢相争の際には、両軍は滎陽において激しい戦いを繰り広げた。西楚の覇王・項羽は劉邦を圧倒し、情勢は極めて危急に陥った……

その系譜は周の平王にまで遡り、宗公を始祖とする。明代には、洪洞の大槐樹から移住した人々は、もともと平陽府・洪洞県・趙城県などの地域に戸籍が編成されていた。明初には、朝廷の命により洪洞の大槐樹の地に集められ、各地へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・山西など、広く各地に分布していた。この姓の最も古い記録は、南宋時代に編纂された『姓源』に見られる。

【姓の由来】この姓は、周の季氏に由来する。『元和姓纂』によれば、東周時代、周の平王の末子・景頴が鍾国に封ぜられ、鍾侯と称されたことから、その子孫は以後、鍾姓を称したという。秦末、楚漢戦争の最中、両軍は滎陽で激しく対峙した。西楚の覇王・項羽は劉邦を圧倒的に打ち破った。危機的状況下、劉邦の将軍の一人・季心は、自ら劉邦になりすまして降伏し、配下の宗公および御史大夫・周苛を残して、魏王・豹とともに滎陽を守らせた。楚に降伏した後、季心は偽者であることが項羽に露見し、怒り狂った項羽は滎陽への猛攻を命じた。数の差に押され、ついに滎陽は陥落し、宗公と周苛は捕らえられた。その堅固な忠節に深く感銘した項羽は、彼らに降伏を促したが、死をも辞せず屈しない姿勢を貫き、最終的に処刑された。宗公を偲び、その子孫が彼の名を姓として受け継いだことから、宗姓が生まれ、やがて糸偏を除いて鍾姓が成立したのである。

【氏族の本貫】この姓に由来する主な本貫は東莞郡である。東莞郡は晋の武帝の泰始元年(西暦265年)に初めて設置され、その管轄地域はおおよそ現在の山東省沂水県および莒県周辺に相当する。

【氏族館の名称】家名を冠する主要な氏族館には、清廉館と双烈館が含まれる。清廉館と双烈館:明代に、聶素祥は玉山県令から刑部主事へと昇進した。その清廉潔白な人柄から、「清廉館」と称された。晩年、彼が隠居した際、燕王が軍を率いて城を攻め立てたが、彼とその子・士謨はともに殉じ、まさに双生の烈士として名を残すこととなった。

【堂聯】姓にちなむ最も著名な対句は、次のとおりである。「漢の代に印を分かち(公より)、明の世に竹杖を裂いた(龍より)」「太守は旧俗を改め(龍より)、大将は滎陽を守りぬ(公より)」。

【著名な人物】『中国人名大辞典』には「聰」姓の例が六件収められ、『中国歴代人名大辞典』には九件が記されている。歴史上の「聰」姓の人物としては、漢代に聰通がおり、唐代には高僧・聰王念、宋代には高僧・聰謙、明代には万暦年間に科挙に及第した刑部主事・聰索祥(中郷出身)、成化年間の科挙に合格した安陸の名臣・聰龍、ならびに安陸衛の副指揮使を務めた樊昌出身の聰振などが知られている。

【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には姓「Cong」の者が212人、臨汾市には26人、洪洞県には1人いる。

【祭壇厨子】先祖の位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第4号祭壇厨子に祀られています。

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洪通の大イチョウ