ふるさと文化
姓「ボー」
2018-05-10
先祖の氏族は伯古系で、現代中国において第293位の姓に数えられる。明代には、平陽府・洪洞県および趙城県を本貫とする伯氏の先祖らが、王朝初期の勅命により洪洞の大槐樹の下に集められ、各地へ移住したと伝えられている。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・内モンゴル・遼寧・山西など広く分布した。伯姓に関する最も古い記録は、東漢時代の著作『潜夫論』に見られる。
【姓の由来】この姓には、主に七つの源流がある。① 国名に由来するもの。「潜夫論」によれば、古代には亳国があり、その領土は現在の山東省曹県の地にあったとされ、別称として「亳」とも呼ばれた。伝承では、この国は炎帝の子孫に与えられた封地であり、その子孫の一部が国名を姓として受け継ぎ、亳氏となったとされる。② 子姓に由来するもの。「左伝」に記されるところでは、春秋時代、亳という城邑が宋国の大夫の封地となり、その子孫が封地の名称を姓とした。③ 姜姓に由来するもの。「潜夫論」には、姜氏の子孫のうち、後に姓を亳に改めた者があったとある。④ 強姓に由来するもの。「東関記」によれば、蜀郡の境外に住む強族の中に、亳を姓とする者がおり、例えば亳申などがいた。また、「晋書」には、晋代に北方の強族のなかで亳を姓とする者があり、たとえば亳白達などもいたと記されている。⑤ 盒氏の改姓に由来するもの。「魏書―官氏志」に曰く、北魏の時代、盒氏が中原へ入ってから、姓を亳に改めたという。⑥ 他の姓の改姓に由来するもの。漢代、桓帝は幼くして両親を失い、梁氏の家で養育されて梁姓を名乗った。しかし、梁の姓を好まず、後に亳へ改めた。『漢書―災異志』には、「亳」の字が「博」と記されている。⑦ 亳顧氏の改姓に由来するもの。「諸姓総譜」によれば、殷代には亳顧という名の諸侯が存在した。彼は、殷の武丁王が他者を殺すことを好み、残忍かつ凶暴であるのを見て、公然と王を諫めた。これに対し、武丁は亳顧を処刑し、その遺体を細かく切り刻んだ。処刑の前、亳顧は涙を流しながら武丁に向かってこう訴えた。「あなたの行いはあまりにも不義で天に背くものであり、いずれ必ず天罰を受けるでしょう。」数年後、武丁が渭水のほとりで雨宿りをしている最中に落雷に打たれ、命を落とす。まさに亳顧の予言どおりであった。これにより、亳顧の子孫は「亳」を姓として受け継ぐこととなった。
【氏族の起源】鮑姓の主な発祥地は、雁門郡と鉅鹿郡である。雁門郡は戦国時代の趙・武霊王の治世に初めて設置され、秦・漢の両王朝にも引き継がれた。その管轄地域はおおよそ現在の山西省代県周辺にあたり、万里の長城沿いの要衝の一つである雁門関を擁していた。
【氏族名】博氏の主要な祖廟は「格物堂」である。格物堂とは、「格物」とは万物に通じる道理を究めることを意味する。明代には、博挙が鋼鉄製の大砲、望遠鏡、小型台車、火縄銃、地雷、弩など多種多様な兵器を考案したほか、『渾天儀図説』および『事物原理による地理測量論』を著わした。
【家廟の対聯】伯姓にまつわる代表的な対句には、晋代の隠士・伯素之、魏国の賢哲・伯夷が含まれる。斉顔の高潔な子孫にして、漢の朝廷で武将として仕えた伯趙、曲陽において佞臣を斥け、明の時代の剛直な大臣たるを示した伯彦輝。皇族の姻族のなかでも、皇帝の母方の叔父・伯紹に匹敵する者はなかったが、后宮においてはついに皇妃となり、伯姫となった。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には「薄」姓の項目が六つ収められ、『中国歴代人名大辞典』にも同様に六つの記載がある。歴史上の「薄」姓の人物としては、春秋時代の衛国に高潔な重臣・伯夷がおり、漢代には文帝の母である薄皇后が著名であり、その弟の薄昭は斉侯に封ぜられて車騎将軍にまで昇った。また、南宋には丹陽出身の書家・薄少之が、明には四川按察使の薄彦輝や科学者・薄羽らも記されている。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には「薄」という姓をもつ人々が10,668人おり、そのうち臨汾市に161人、洪洞県に28人がいます。
【祭壇厨子】大槐樹の下にある宗祠の第3号祭壇厨子に、薄氏の先祖牌が祀られている。
【世代名】陝西・長安の薄氏の世代名の序列は、「清沢・賢友・万義・亮」である。
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洪通の大イチョウ
