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ヘン姓

2018-04-16


祖先の創始者は、伊尹・冀衡・袁紹である。明代には、洪洞の大槐樹に由来する衡氏一族が、平陽府・洪洞県・趙城県など各地に記録された人物をその源流としていた。明初には、朝廷の勅命により、これらの家系は洪洞の大槐樹の地に集められ、やがて各地の遠方へと移住していった。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・山西など広く分布した。衡姓に関する最も古い記録は、東漢の『風俗通・姓氏篇』に見られる。【姓氏の由来】この姓には主に三つの源流がある。① それは冀氏に由来するものである。『元和姓纂』によれば、春秋時代の魯国の王子・衡に端を発し、その傍系のうち一部の子孫が祖父の諱を姓として衡氏を称したという。② また、官職名に由来する姓にも起源を持つ。『風俗通義』に記されるところでは、夏の末期、商族の首長たちは……

先祖に当たる創始者は、伊尹、冀衡、袁紹である。明代には、平陽府の洪洞県および趙城県を発祥とする衡氏の先祖らが、王朝初期に洪洞の大槐樹の下へ集まり、各地へ移住するよう命じられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・山西など、広く各地に分布した。衡姓に関する最も古い記録は、東漢の『風俗通・姓氏篇』に見られる。

【姓の由来】この姓には主に三つの源流がある。① まず、紀氏に由来するものである。「元和姓纂」によれば、春秋時代の魯国の桓公を始祖とし、その末裔の一系が祖父の諱(名)に由来して「桓」という姓を称したことに端を発する。② 次に、官職名に由来する姓である。「風俗通義」に記されるところでは、夏王朝末期、商の首領・成湯が反乱を起こし、暴君であった最後の夏王・桀の支配を打倒して商朝を樹立した。夏を滅ぼし商を興す過程において、成湯は側近の伊尹に大きく依拠した。もともとは妻の嫁入り道具として連れてこられた奴隷であった伊尹は、その才能を認められて宰相に抜擢され、卓越した手腕でその任を全うした。こうして伊尹は中国史上初の名宰相となり、後世に至るまで賢人として崇められた。商朝の成立後、成湯は伊尹に「阿衡」という尊称を与えた。「阿」は「倚る」、「衡」は「扶たえる」を意味し、合わせて国家の柱石たる存在を表している。伊尹の子孫のうち、ある一派がその尊称「衡」を姓とした。③ 最後に、袁姓に由来するものである。「万姓統譜」によれば、三国時代、袁紹が曹操に敗れた後、その子孫の一部は曹操による滅亡を恐れ、衡山へ逃れて隠棲した。身の安全を確保するため、彼らはその山の名称「衡」を姓として採用した。

【氏族の起源】衡姓の主な発祥地は、雁門郡と汝南郡である。雁門郡については、戦国時代に趙の武霊王(在位紀元前325年~前299年)が雁門郡を設置し、秦・漢両朝にも引き継がれた。その領域はおおよそ現在の山西省代県一帯にあたり、万里の長城沿いの要衝の一つである雁門関が所在していた。

【氏族名】衡姓の主要な祖廟は「阿衡殿」である。阿衡殿:伊尹は殷王朝の徳高い宰相であった。殷の湯王が桀を倒し夏を滅ぼした際、伊尹の功績は極めて大きく、湯王は彼を「阿衡」と敬称して呼び、その地位を湯王と同等と見なし、臣下として遇することを敢えてしなかった。

【堂聯】衡氏の主たる対句は、次のとおりである。学界に名を馳せし(衡壺)、当代において雄弁な文章で称された(衡公)。勇気と謀略は世を助くる(衡義)、慈しみ深く親しみやすく、万人に愛される(衡悦)。

【著名人物】『中国姓氏大辞典』には、衡姓の例が二つ記されている。この姓を名乗った歴史上の人物としては、漢代に斉の出身で王莽の下で講師を務めた衡顕や史家・衡胡、さらに京兆尹を務めた衡雲などが挙げられる。また、唐代には衡守之がいた。

【人口】第四回全国人口センサスの結果によると、山西省には姓「衡」をもつ者が1,615人おり、そのうち臨汾市に1,217人、洪洞県に43人が居住している。

【祭壇厨子】恒氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第3号祭壇厨子に祀られている。

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洪通の大イチョウ