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姓のタイ

2018-04-03


家系は、始祖が后稷である有邰氏に遡る。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などの地域を発祥とする泰山氏が、洪洞の大槐樹の下で皇帝の勅命により他地方へ大規模に移住させられた一族の一つであった。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・山西など各地に広がった。姓「泰」に関する最も古い記録は、宋代の著作『姓解』に見られる。【姓の由来】この姓の主要な出自は三つある。① それは「姞」氏に由来するものである。「説文解字」によれば、古くは現在の陝西省武功県付近に、炎帝の末裔である有邰という部族が存在したと伝えられている。その後、黄帝の曾孫である帝が有邰氏の娘・姜嫄と結婚し、その間に生まれた息子は捨てられ、そこで牛や馬、小…

その系譜は、始祖を後稷とする泰氏に遡る。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する泰氏一族が、洪洞の大きな槐樹の下で皇帝の勅命により大規模に他地域へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・山西など各地に広がった。泰姓に関する最も古い記録は、宋代の著作『性解』に見られる。

【姓の由来】この姓には主に三つの源流がある。① まず、紀氏に由来するものである。「説文解字」によれば、古くは現在の陝西・武功県あたりに、炎帝の末裔である有邰氏という部族が存在したと伝えられる。黄帝の曾孫・帝が有邰氏の娘を娶り、その間に生まれた子・姜嫄が捨てられた際、牛や馬、さらには小鳥までもが彼を取り巻いて守ったという。やがて拾われたその子は「棄」と名付けられた。棄はあらゆる植物に強い関心を示し、異母兄の堯帝によって農業を司る官職・后稷に任ぜられ、後に神農として崇められるようになった。彼の治下では年々農作物の収穫が豊かになり、堯帝を大いに喜ばせたため、彼は有邰氏の君主として封じられた。その子孫のうち、一部は封地の名称に由来して「邰」を姓とした。② もう一つは、別の姓から改称されたものである。「周書」および「魏書・官職志」によれば、北魏の時代に、鮮卑の三字姓・達里乞が存在し、中原へ移住した後、この姓は「邰」へと改められたと記されている。

【氏族の起源】タイ姓の主要な出自は平盧軍節度使府である。平盧軍節度使府は唐・五代の時代に設置された軍事的行政区域で、開元七年(西暦719年)に設けられ、その治所は瀛州(現在の遼寧省朝陽市)に置かれた。上元二年(西暦761年)には治所が青州(現在の山東省沂水県)へ移され、北宋初期に廃止された。

【氏族会館の名称】 太姓の代表的な氏族会館は「義親堂」である。義親堂とは、「翼を張って母を守る」という意味である。明代、太茂之は父母にたいへん孝行であった。母は雷鳴を恐れていたため、雨が降り雷が鳴るたびに、茂之は自らの身体で母を覆い、両腕を大きく広げてまるで翼を広げたかのようにした。母が亡くなった後も、雷が鳴るたびに、茂之は大きな傘を差して母の墓を守ったという。

【堂聯】戴氏の主要な堂聯には、次のようなものがある。「連州は徳を称え」(戴靖)、「長陽は銘を刻む」(戴鼎)。「文壇に名士あり」(戴瑞)、「才俊にして皆に尊ばれる」(戴山孟)である。

【著名人物】『中国姓氏大辞典』には「邰」姓の項目が一つ収められており、『中国歴代人名大辞典』にも同様に一項目が掲載されている。歴史上の人物としては、宋代に儒林郎の官職を務めた邰瑞が知られ、明代には慈利出身で孝子として称えられた邰茂之や、郷試に合格して大足県の教諭を務めた邰綱がいる。

【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には太姓の人口が2,774人おり、そのうち臨汾市に1,861人、洪洞県に401人が居住している。

【祭壇厨子】大槐樹の下にある宗祠の第2号祭壇厨子には、太氏の先祖牌が祀られている。

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洪通の大イチョウ