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閩に移住した司氏の始祖一覧

2018-03-12


司氏は、洪武年間の第21年に、洪洞から曹の西北33里に位置する司楼へ移住したことにその起源を遡る。司徽元は字を伯仁といい、明の初期に洪洞より菏澤西方の若吾殿へと移り、光緒年間の第20年に碑が建立された。司鼎は字を和平といい、永楽年間に洪洞より新鄭の大石村へと転居した。次男の司鼎は、洪武7年に洪洞の端河橋より通許へと移った。三男の司英(四男および五男は先祖の地に留まったまま)は、洪武7年に洪洞の端河橋より密県へと移住した。長男の司公(宋系の家系)は、次男である弟の司統とともに韓佐鎮へと移り、三男の司淮は河北へと転居した。司王雲は四人の息子を率いて、洪武2年に山西省より滕県北部へと移住した。以上は、王文廷著『洪洞移住者始祖表』からの抜粋である。

この一家の起源は思柳に遡る。洪武年間の二十一年に、彼らは洪洞から曹の西北三十三里に位置する思柳へと移住した。

司恵元は、字を伯仁といい、明初に洪洞より菏沢西部の若武店へ移住した。光緒二十年には石碑が建立された。

司丁は、号を和平といい、永楽年間に洪洞から新鄭の大石村へと移住した。

司氏は第二位に列せられ、洪武七年に洪洞の端河橋より通許へと移った。

司英興は三男であり(四男と五男は先祖の家を守るために残った)、洪武七年に洪洞県段河橋より綿県へ移住した。

宋の時代、以前は従二品であった司公行義は漢左鎮へ、また従三品であった司懐は河北へと転任した。

司王雲は四人の息子を率い、洪武二年に山西省から滕県の北部へと移住した。

王文廷の「洪洞移住民の始祖表」より抜粋

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洪通の大イチョウ