ふるさと文化
班姓
2018-03-05
その系譜は楚の諸侯および若敖氏にまで遡り、初代祖は顧余屠である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する班氏一族が、洪洞の大槐樹という中央集散地において、他地域へ大規模に移住させられた一族であった。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・江蘇・湖北・湖南・遼寧・黒竜江・山西など、広く各地に分布した。なお、班姓に関する最も古い記録は、東漢の『風俗通・姓氏篇』に見られる。
【姓の由来】この姓は、米氏に由来する。『風俗通義』『明賢始祖顔行雷稿』『西溪叢語』などの記録によれば、春秋時代、楚の若敖王の子である斗伯比と、雲国の君主の娘は、幼い頃から共に遊び仲間として育った。やがて成長するにつれ、互いへの情愛はますます深まり、雲国の姫が身ごもった際には、密かにその子を雲夢沢に置き去りにしたところ、猛虎がその嬰児を乳で育てたという。これを知った雲公は、その嬰児を引き取り、娘と子をともに楚へ送り返し、そこで斗伯比と再会させた。楚では乳を「穀」と呼び、虎を「豈兎」と称していたため、その嬰児は「穀豈兎」と名付けられ、字を「子文」とした。成人後、その非凡な才により、楚の令尹に任ぜられた。さらに斗の子が生まれたとき、幼時に虎の乳で養われたことを記念して、父はその子を「斗斑」と名づけた。「斑」は「縞模様のある虎」を意味する。のちに楚の文王は、彼を申県の侯に封じた。斗斑の子孫は、父の名を姓として受け継ぎ、これにより班氏が成立した。秦が楚を滅ぼした後、斗斑の子孫は晋・代の諸国を転々と移住し、さらにその子孫は「班」の字を「班」と改め、これによって班姓が生まれた。
【氏族の本貫】班姓の主要な本貫は扶風郡である。扶風郡とは、漢の武帝の太初元年(紀元前104年)、右扶風を「三輔」の一つとして設置したことに由来する。三国時代の曹魏の時期には扶風郡と改称され、おおよそ現在の陝西省長安県以西の地域に相当する。
【氏族館の名称】班姓の主要な氏族館は、定遠館と漢書館である。漢書館:漢代の班彪は、その子の班固および娘の班昭とともに、親子三代で『漢書』を完成させた。
【班氏・班家にまつわる対句】 班氏にちなんだ代表的な対句には、次のようなものがある。「史官として歴史を記す」(班固)、「筆を置き侯爵に封ぜられる」(班超)。「左と馬の跡をたどる」(班固)、「偉業を成し、傅・張に称えられる」(班超)。「虎の穴をくぐって侯爵に至る」(班超)、「清廉な官吏のための天の器」(班景倩)。「帝車の寵を受けず」(班婕妤)、「慧夫人は貞節を守り、遺児を育てた」(班昭)。
【著名な人物】『中国姓氏大辞典』には班姓の項目が16件収められ、『中国歴代人名大辞典』には26件が掲載されている。歴史上の班姓の人物としては、漢代に西域都護の班超のほか、『漢書』を共同で著した班彪とその子・班固が挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には班姓の人口が6,044人おり、そのうち臨汾市に204人、洪洞県に28人が居住している。
【祭壇厨子】大槐樹の下にある宗祠の第2号祭壇厨子には、班氏の先祖牌が祀られている。
【輩行名】清の光緒年間の未完本『班氏族譜』によれば、陝西・醴泉の班氏の輩行名の順序は「家伝―仁孝;永守信義」となっている。
【移住】洪洞の大槐樹に由来する班氏は、明の永楽二年に始祖が山西省洪洞から北京市門頭溝区の上窩店村へと移住したことにその祖先の起源を遡る。
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洪通の大イチョウ
