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プーという姓

2021-04-22


この家系は熊氏に遡り、その始祖は普公である。明代には、洪洞の大きな槐樹から移住した普氏の先祖らは、もともと洪洞県平陽府および趙城県に戸籍を置いた。明初、朝廷の勅命により、洪洞の大きな槐樹の地に集められ、各地へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・甘粛・山西など広く分布するに至った。普姓に関する最も古い記録は、南宋時代に編纂された家譜『興元』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に二つの起源がある。① それは紀氏に由来するものである。「姓源」によれば、春秋時代中期、衛の霊公が晋の平公に謁見するために赴き、蒲水のほとりで一時休息した際、夜半に琴の最も美しい調べを耳にした。そこで自らの楽師・史涓を呼び寄せ、共に聴くことにした。史涓もまたその音色に心を奪われ、数夜にわたり聴き続け、ついにはすべてを記憶してしまった。やがて晋国に到着すると、史涓はその曲を平公に奏した。折しも曲の半ばに差しかかったとき、名高い晋の宮廷楽師・師曠が進み出てこれを制止し、「これは滅びゆく国の音であり、聞くべきではない」と告げた。しかし平公はそれを信じず、史涓に全曲を奏するよう命じた。その夜、平公は病に倒れ、翌年には亡くなった。このことを知った衛の霊公は、不吉な音を遠ざけるため、蒲水のほとりに集落を設け、これを「蒲城」と名付けた。町が築かれて以来、あの幽玄な琴の響きは二度と聞かれなくなった。そして蒲城の初代県令は、「蒲」を姓として採用した。② もう一つは熊氏に由来するものである。「左伝」および「呂氏春秋」に記されるところでは、かつて「蒲」は周代の一諸侯国であり、現在の湖北省石首県の南方に位置していたとされる。伝説によれば、この国には君主がおらず、民は村や集落を組織して自治を行っていたため、「百蒲」という別称もあったという。春秋時代、蒲氏は楚の諸部族の一つで、総称して「百蒲」と呼ばれ、熊氏の系統に属していた。やがて晋によって征服された附庸国であり、その後、蒲の君主の子孫たちは、自らの旧国名を姓としたと伝えられている。
【氏族の起源】蒲姓の主な出自は、魯国と濮陽である。魯国については、西漢初期に秦代の薛郡が改編されて魯国となり、三国時代の魏および晋代には魯郡と改称された。この地域は、おおよそ現在の山東省曲阜市および泗水県周辺に相当する。
【堂号】蒲姓の本堂の名称は「火中堂」である。火中堂:元朝の至大年間、洪水と飢饉により当地の人々は深刻な飢えに苦しんだ。比較的裕福な農民であった蒲建は、災害救済のために千石余りの穀物を寄進し、多くの人々の命を救った。
【堂聯】蒲氏の主要な堂聯は次のとおりである。「高麗に於ける忠烈」(蒲振)、「東海の詩情」(蒲仲翁)、「東海に名を馳せる」(蒲仲翁)、「雄将の志を凌ぐ」(蒲振)。
【著名人物】『中国歴代人名大辞典』には「蒲」姓の人物が七例記載されており、『中国人名大辞典』にも同様に七例が掲載されている。歴史上の「蒲」姓の人物としては、宋代に画家の蒲万年と蒲俊民、明代には水利技師で安陸県令であった蒲有容および名将の蒲英、清代には江寧出身の彫刻家蒲仲謙と蒲黄が挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には蒲姓の人が71人おり、そのうち臨汾市に26人が居住している。
【祭壇厨子】プ氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第10号祭壇厨子に祀られている。
【移住】山西省洪洞の大槐樹に由来する蒲氏は、明初期に洪洞の大槐樹から甘州衛の三公堡(現・臨沢県上庄郷上荘村)へと移住した先祖にその起源を遡る。今日に至るまで、その家系は185戸、788人にまで発展している。明万暦年間には、さらに一支が高台県河裏郷武邑村(現・蒲家荘村)へと移り、以来、170余戸、800余名にまで拡大した。

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洪通の大イチョウ