ふるさと文化
朱姓
2020-05-08
先祖たちは鄒無柱と諸葛士明である。明代には、洪洞の大きな槐樹から移住した朱氏の先祖らは、もともと平陽府・洪洞県・趙城県など各地に戸籍を編成していた。明初、朝廷の勅命により、洪洞の大槐樹から各地の遠方へと集団的に移転させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・山西など各地に広がった。朱姓についての最も古い記録は、東漢の『風俗通・姓氏篇』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に三つの源流がある。①封地の名称に由来する氏族に端を発するものである。『漢書』地理志によれば、琅邪には数県があり、一部の家はその地名をもって姓とした。春秋時代、魯の国には朱邑という地があり、その旧領は現在の山東省諸城県の境内にあたる。当該地域で高位の官吏が土地を賜った際、その子孫は封地の名を姓として受け継いだ。②越国の呉朱王の末裔に由来するものである。『姓考』に記されるところでは、周代には現在の福建省東南部および広東省に、鄒呉朱と称する小国が存在し、その君主は鄒呉朱であった。秦の始皇帝が中国を統一した際、鄒呉朱は王号を剥奪され、ただ一族の長にすぎなくなった。その後、呉朱が劉邦の反乱に加わり漢朝が成立すると、彼は再び越国の王号を回復して恩賞を受けた。しかし間もなく、劉邦が多くの功臣を粛清したため、呉朱は再び挙兵した。ようやく鎮圧されたのは、漢の武帝の治世になってからであった。以後、越国の君主の子孫は鄒呉朱の名を姓として用い、これにより朱氏が生まれた。③諸葛という複姓から派生したものである。『姓氏考略』によれば、五代の時期、後周に仕えた諸葛師明という官人がいた。趙匡胤が陳橋の変を起こして宋朝を創建した後、諸葛師明は会稽山に隠棲し、複姓の諸葛を単姓の朱へ改めた。
【氏族の本貫】諸姓の主要な本貫には、琅邪郡や会稽が含まれる。琅邪郡は、もともと春秋時代の斉国における琅邪の地であり、春秋末期には越王勾践が都をここに遷した。秦による六国統一(紀元前221年)の際、秦始皇は琅邪郡を設置し、その管轄区域はおおよそ現在の山東省東南部に位置する諸城県・膠南県・臨沂県の各一部に相当した。その行政中心地は琅邪に置かれていた(現在の膠南県琅琊台西北)。
【堂号】 朱氏の代表的な堂号は「威耕堂」である。 威耕堂:楚の荘王は自らの享楽のために高台を築き、これに諫言した72人の大臣を皆殺しにした。そのころ、朱玉璣は楚の都から百里余り離れた田舎で農作業に従事していた。彼は雇い人たちにこう言った。「私は荘王に諫言を進言しようと思う。あの高台の築造を決して許してはならない。」すると人々は答えた。「すでに72人の大臣が死んだというのに、たかが一介の農民であるお前がどうして生き延びられるというのだ?」朱玉璣は言い返した。「農耕は体力に依るが、君主に諫言するには智恵が必要だ!」こうして彼は農作業を捨て(ゆえに「威耕」すなわち「農耕を委ねる」という名が付いた)、朝廷へ赴いて王に諫言した。荘王はその言葉を聞いて、高台の築造を中止した。 【堂聯】 朱氏の代表的な対句には、次のようなものがある。「一言にして高台を落とす」(朱玉璣)、「一言にして呉を鎮める」(朱季影)。「新儒学の大家」、「忠節をもって国家に仕える」(朱燮)。
【著名人物】『中国歴代人名辞典』には朱姓の人物が15名収められ、『中国人名大辞典』には11名が記されている。この姓を有する歴史上の人物としては、春秋時代に楚国の朱玉己、戦国時代に重臣の朱法、宋代には高僧の朱顕、明代には孝女である朱娥や、吏部主事として仕えた官僚の朱諧、清代には画家の朱昇および詩人・学者の朱軾らが挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には朱姓の人が294人おり、そのうち臨汾市には45人いる。
【祭壇厨子】大槐樹の下にある祖霊殿の第8号祭壇厨子には、すべての姓氏の先祖位牌が祀られている。
【移住】朱氏の先祖に当たる一派は、洪洞の大槐樹を発祥とし、明代の永楽年間に山西省洪洞県から大城県大同子郷五房村へと移住した。
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洪通の大イチョウ
