ふるさと文化
詹姓
2018-11-15
家系は紀氏に遡り、始祖は斉公である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する詹氏一族が、皇帝の勅命により一帯で他地域へ大規模に移住させられ、その集合地点は洪洞の大槐樹とされた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・山西など各地に広がった。詹姓に関する最も古い記録は、唐代の著作『元和姓纂』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に四つの源流がある。① 官職に由来する世襲の官名から発した説。古くは「占」の字は「占い」を意味する「讖」と同義であり、占卜および祭祀を司る官職は「占尹」と称された。その子孫が「占」を姓とした。② 封地に由来する氏族の説。『路史』によれば、殷代に黄帝の末裔が占の地に封ぜられ、旧占如の地は現在の江西省楽安県にあたり、その子孫が後に「占」を姓としたとされる。③ 姬氏に由来する説。『姓源』に記されるところでは、西周末期、周の幽王は放蕩で無能な君主で、淫楽にふけり諫言を顧みなかった。宮廷で少師を務めていた異母兄の占侯は、これを嘆じて「婦人を過度に重んずるは禍の根源なり。今こそ去らねば、必ずや連累せられよう」と述べた。病を口実に宮廷の職を辞し、自らの封地である占の地へ帰った。その後、褒姒を喜ばせようと、幽王は王后を廃し、太子を追放し、さらには諸侯を嗤わせるために烽火の偽報まで仕組んだが、これがついには国の滅亡を招いた。幽王自身も西戎に討たれ、朝廷の諸臣の多くがその放蕩の犠牲となった。ただ、すでに退いていた占侯のみが無事で、その子孫が封地に由来して「占」を姓とした。④ 地名に由来する説。『晋書』の「趙玖伝」には、晋国に「占桓伯」という官吏がおり、また晋の「占甲」や鄭の「占伯」など、いずれも地名に由来する姓の例として挙げられている。
【氏族の故郷】湛氏の先祖の本貫は河間郡である。河間郡は、戦国時代にはもともと趙の領土に属していたが、漢の高祖初年に郡として設置された(紀元前206年)。その名称は、黄河と永定河の間に位置することに由来し、おおよそ現在の河北省中部にある河間県周辺の地域に相当する。
【氏族会館の名称】湛姓の主要な氏族会館には、中連館と高道館がある。中連館:明代に湛俊は磁州の副知県を務め、自らの座右の銘として「忠・勤・廉・儉」の四字を刻み、これによって自らを励ましたという。
【堂聯】湛氏の主要な対句には、次のようなものがある。「廷臣の鑑としての教訓」(湛象)、「楼官・龍文之図」(湛度)、「奇才の名門」(湛恵竜)、「貞婦とその一家」(湛氏)、「君臣の模範たる者」――朝廷および宗廟のために壮大な方略を立てた(湛象)、「御階の日々の注釈」――明王朝の至宝たる教えを説いた(湛通)。
【著名な人物】『中国姓氏大辞典』には「詹」姓の項目が55件収められ、『中国歴代人名大辞典』には60件が掲載されている。歴史上の「詹」姓の人物としては、周代に重臣・詹伯がおり、春秋時代には晋に詹嘉、虢国には宰相・詹父がいた。戦国時代には、秘術の大家・詹何が名を馳せた。五代十国時代には、閩の国で武原出身の将軍・詹必勝が軍の先鋒として活躍した。宋代には、蒲城出身で農政大臣を務めた詹体梁がいる。宋末には、四川の将軍・詹俊が元への抗戦において殉じた。明代には、武原出身の書家・詹希元がおり、清代にはやはり武原出身の画家・詹天寵がいた。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には湛姓の人口が3,748人おり、そのうち臨汾市に92人、洪洞県に2人がいる。
【祭壇厨子】祖先の位牌は、大イチョウの下にある宗祠の第5号祭壇厨子に祀られている。
【系譜】湛姓の主要な系譜著作には、次のものが含まれる:「江蘇・江都湛氏族譜四巻」(吉林大学)、「浙江・淳安・遂安・西園湛氏祖譜―不分冊」(安徽図書館)、「安徽・徽州・新安湛氏家譜四巻」(人民大学)、「安徽・休寧・六塘湛氏祖譜六巻」(北京図書館)、「江西・婺源・清遠湛氏族譜不分冊」(北京図書館)、ならびに「湛氏祖譜十八巻」(北京図書館)である。
【輩行名】「詹氏家譜」の断片写本によれば、安徽省宣城(現在の宣城市)に所在する詹氏の一派の輩行名の序列は、「高・恒・修・申・敏・成・何・義」となる。
キーワード:
洪通の大イチョウ
