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ラング姓

2018-11-01


姓の起源は紀氏に遡り、その始祖は費伯である。明代には、平陽府洪洞県および趙城県を発祥地とする郎氏一族が、洪洞の大槐樹の地から他地域へと大規模に移住させられた一派に属していた。清末には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・山西など各地に広がった。郎姓に関する最も古い記録は、北宋時代の『広韻』に見られる。【姓の由来】主な源流は二つある。①紀氏に由来するものである。『古今姓氏書辯証』『元和姓纂』『氏族略考』によれば、春秋初期、魯の懿公の孫に費伯という者がおり、魯国の重臣として仕えた。費伯は密かに軍を率いて、現在の山東省に位置する郎の地を奪取した。

この家系は、費伯を始祖とする季氏に由来する。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する郎氏が、洪洞の大槐樹の下で皇帝の勅命により一帯となって他地へ移住した。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・山西など各地に広がった。郎姓に関する最も古い記録は、北宋時代の『広韻』に見られる。

【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。① 紀氏に由来するものである。「古今姓氏書辯証」「元和姓纂」「通志・氏族略」などによれば、春秋時代初期、魯の懿公には斐伯という孫がおり、魯国の重臣として仕えた。彼は密かに兵を率いて、現在の山東省魚台県に位置する郷邑の領地を奪い、そこに自らの家を定めた。その子孫は居住地をもって姓とした。② 古代の少数民族の姓に由来するものである。「姓氏考」には、朗は匈奴の姓であり、南匈奴にも朗氏があり、その一員として朗谷都侯がいたと記されている。

【氏族の起源】郎姓の主な発祥地は、中山郡と魏郡である。中山郡:古代、春秋時代に白狄の一派によって中山国が成立した。漢高祖の初年に、この地域に中山郡が設置され、その治所は盧奴(現在の河北省正定県)に置かれた。その管轄区域は、おおよそ現在の河北省における琅琊山以南、滹沱河以北の地域に相当する。

【氏族館の名称】郎姓の代表的な氏族館は「玄陰堂」である。玄陰堂:後漢の時代、郎宗は易学に深い造詣を有し、その名が広く知られていた。安帝は彼を召して呉の県令に任じたが、官職に就くことを望まず、ある夜、庭の木に印璽と官服の徽章をひそかに掛け、山中に逃れて隠遁した。

【堂聯】郎姓にまつわる代表的な対句には、次のようなものがある。「西昌の隠者」(郎永)、「新楽の高士」(郎玉嶺)。「経房により易を説き、清湘学派の学統を継ぐ」(父子・郎宗)、「沈・宋に比肩する詩風、聖なる壇上に名を馳す」(郎世元)。

【著名人物】『中国姓氏大辞典』には郎姓の項目が28件収められ、『中国歴代人名大辞典』には32件が掲載されている。郎姓を称した歴史上の人物としては、西漢時代に安丘の出身で名高い方術者であった郎宗や、郎漢が挙げられる。隋代には、隋の煬帝に仕え、雍州司馬を務めたのち、右補闕などの職を歴任した郎茂がいる。唐代には、定州の詩人である郎士元や、名医にして画人でもあった郎玉嶺が著名である。宋代には、工部侍郎の郎 Jianが記録されている。明代には郎英が、清代には吉安の書画家・郎宝臣のほか、名医として知られた郎彦吉が輩出している。

【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には郎姓の人口が1万8,684人おり、そのうち臨汾市に679人、洪洞県に80人が居住している。

【祭壇厨子】郎氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第5号祭壇厨子に祀られている。

【輩行名】清・光緒14年に郎明が編纂した『郎氏族譜』によれば、河北省高邑県の郎氏一派の輩行名の順序は、「日 金 開 正、大 廣 明 現、中 後 傳 家、洪 如 上 華」となっている。

【移住】洪洞・大槐樹の移住者の中でも、郎氏の一派はその先祖の起源を明初にさかのぼり、始祖が山西省洪洞県から新河県東下村へと移住したことに由来する。また、郎氏の別の一支族は、明の永楽三年に、やはり山西省洪洞県から新河県南杜興村へと移り住んだことに先祖の起源を求める。さらに、郎氏の第三の一支族は、永楽二年に、祖先が山西省洪洞県から陵川県へと移住し、その後新河県朗家荘村に定住したことに端を発する。一方、濮陽の郎氏については、一派の祖先が明の洪武初期に、山西省洪洞県から濮陽県朗中郷朗寨村へと移住した。また、濮陽郎氏のもう一派は、永楽年間に、山西省洪洞県から濮陽県清足鎮朗家寨村へと移住している。最後に、陽谷の郎氏の先祖の起源は、洪武年間にさかのぼり、その始祖が山西省洪洞県から陽谷県漆集鎮後郎湾村へと移り住んだことに求められる。

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洪通の大イチョウ