ふるさと文化
姓:イ
2018-08-31
始祖は伯夷である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する易氏一族が、洪洞の槐樹の下で皇帝の勅命により一帯となって他地へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南省・山東省・河北省・北京市・陝西省・甘粛省・安徽省・江蘇省・湖北省・湖南省・山西省など各地に広がった。易姓についての最も古い記録は、南宋時代の『通志・氏族略』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。①祖の名に由来する父称から派生したものである。「元和姓纂」によれば、古代の聖王・舜の時代、伯夷という高官がおり、大禹が洪水を治める際にはその側近として仕えた。大禹が舜の後を継いで即位すると、伯夷と皋陶は共に政務を執ったが、やがて皋陶が没したのち、伯夷は単独で政権を掌握し、大禹のもっとも重用される臣下の一人となった。卓越した統率力により諸侯の間でも高い威信を誇り、臨終の際に大禹は伯夷に王位を譲ろうとしたが、伯夷はこれを辞して、箕山の南麓に隠棲した。結局、大禹の子・啓が王位を継承し、夏王朝が成立した。中国初期の名臣として、伯夷は後世に至るまで賢人として崇められ、その子孫の一部は彼を顕彰して「夷」という姓を称するようになった。②地名に由来するものでもある。「太平寰宇記」には、城陽郡に三つの姓があり、そのうちの一が「夷」であったと記されているほか、城陽郡には夷都県が存在し、そこに住む人々は地名に因んで「夷」を姓とする例も見られた。
【氏族の起源】易姓の主要な先祖代々の郡は、馮翊郡と城陽郡である。馮翊郡については、漢の武帝の太初元年(紀元前104年)に「左馮翊」と称される行政区画が設置され、三国時代の魏の時代(3世紀)には左馮翊が改編されて馮翊郡となった。その管轄地域は、現在の陝西省韓城市の南部、白水県の東部、渭河の北部に相当する一帯であった。また、「右扶風」および「京兆」とともに、総称して「京師三輔」と呼ばれた。
【氏族館】イ姓の主要な氏族館は懐遠館である。懐遠館:元代に、イ・チーは智略に長じ、平定に巧みであった。彼は懐遠将軍および曲靖安撫使を務め、その威厳と清廉さは民衆から深く敬慕された。
【家廟の対聯】易氏の代表的な対聯は次のとおりである。「徳と威望は、遠くまで広く人々を納得させる」(易志)、「学問での成功は、代々にわたり家名を輝かせる」(易昌)。「遠近に名高く、将軍の戦略の智恵を尊ぶ」(易志)、「峨眉の美しさが輝き、紹興年間に進士の位を得る」(易昌)。
【著名人物】『中国歴代人名辞典』には、易姓について一項目が収められている。歴史上の人物としては、漢代に易強・易寿がおり、宋代には紹興の進士として科挙に合格した易昌が、また元代には名将として知られる易智がいる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には姓「尤」の人が40人、臨汾市には28人、洪洞県には2人いる。
【祭壇櫃】大槐樹の下にある宗祠の第4号祭壇櫃には、易氏の先祖牌が祀られている。
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洪通の大イチョウ
