ふるさと文化
楊姓
2018-08-10
この家系は、紀氏にその起源を遡り、燕玉・卓永・楊由吉らを最も古い先祖とする。明代には、洪洞の大きな槐樹から移住した楊氏の先祖たちが、もともと洪洞県平陽府および趙城県に戸籍を置いた。明初には、他の地域へ移住するため、洪洞の大槐樹の地に集結するよう命じられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・山西など各地に広がった。楊姓についての最も古い記録は、『春秋左氏伝』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に二つの源流がある。① 姓は紀氏に由来する。『世本考略』および『左伝・昭公三十年』によれば、春秋時代、呉の王子である延羽と朱雍が楚へ逃れ、楚王によって陽という封地を与えられた。その後、その封地を領有した子孫らが陽を姓とした。② 地名を姓としたものである。『世本考』に記されるところでは、かつて陽という国があり、その旧領は現在の河南省宝豊県西北部にある陽陰里にあった。この国は後に楚に滅ぼされ、春秋時代には楚の重臣で名射手であった游季子の封地となった。彼の封地が陽にあったことから、游季子は以後「游」と称されるようになった。あるとき、他の者と弓術を競った際、楊柳の葉に印をつけて百歩の距から矢を放ち、すべての葉を射抜いたという故事から、「百歩で楊柳の葉を射貫く」という成語が生まれた。また、彼は一矢で七重の甲冑を貫くこともあった。晋と楚の鄢陵の戦いにおいて、楚の共王は晋の将軍・魏犨の放った矢に左目を射られて負傷した。王は游季子を召し出し、鋭利な二本の矢を授けて仇討ちを命じた。游季子は一矢で魏犨を討ち果たし、残る矢を手に王のもとに報告に戻った。以来、楚の人々は彼を「陽の一矢」と称し、二度目の矢は不要であると讃えた。伝説によれば、楚の景山には矢を空中で捉える名人である「通臂猿」が棲んでいた。ある時、楚の共王が景山で狩りに出かけた際、この通臂猿と遭遇した。王は猿を囲み、矢を放って狙わせたが、猿は見事にすべての矢を捕らえた。そこで王は再び游季子を呼び寄せた。これを聞いた猿は恐れのあまり大きな鳴き声を上げ、全身を震わせて王の前に現れた。結局、游季子は一矢で猿の心臓を正確に射抜いた。その神にも畏敬を抱かせるほどの卓越した射術ゆえに、その子孫は封地の名に由来して陽を姓としたのである。
【氏族の起源】楊姓の主要な発祥地は山陽郡である。山陽郡には二つの異なる区域が存在した。①漢の景帝中元六年(紀元前144年)、梁郡を分割して山陽郡が置かれ、その後間もなく武帝の建元年間(紀元前140年~135年)に再び山陽郡へと改編された。その治所は昌邑(現在の山東省金郷県西北部)に置かれ、おおよそ今日の山東省にある独山湖周辺に相当する地域にあたる。②東晋の義熙年間(405年~418年)、広陵郡をさらに分割して山陽郡が設けられ、その管轄地域は現在の江蘇省清江および淮安一帯に及び、治所は山陽(現代の江蘇省淮安市)に置かれた。
【氏族館】楊姓の主要な氏族館は、方正館である。方正館とは、漢代に試験によらず授与された官職で、品行方正、清廉潔白、学識優れた者に与えられたものである。後漢の時代、楊賁は博学にして古籍に通じ、郡内一帯から厚く尊崇された。もともと庶民であったが、「方正」に選ばれた。漢の和帝の治世には、旱魃と洪水がしばしば交互に起こった。楊賁は皇帝に諫言して曰く、「これは国家統治に欠陥があるためで、政令が自然の摂理に背けば、陰陽は調和を失います。諸々の有害な法令を悉く廃止すべきであります」と述べた。その言葉は率直にして鋭いものであり、やがて名儒として称せられた。
【堂聯】楊氏の代表的な対句には、次のようなものがある。「平民召されて御前へ」(楊奮)、「甲冑に跪き、その甲を貫く」(楊由己)、「楚国の名臣にして、百歩の距離から柳葉を穿つ術の大家」(楊由己)、「漢から秦へと移り、当時の大儒にして古学に専心す」(楊奮)である。
【著名人物】『中国人名大辞典』には楊姓の人物が二人収められており、『中国歴代人名大辞典』にも同様に二人が記されている。春秋時代の楚国において弓術で名を馳せた重臣・楊由基、東漢の名儒で榆林の出身である楊芬、さらに元代に生きた楊安といった歴史上の人物が、いずれも楊姓を称している。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には楊姓の人が31人おり、そのうち臨汾市に31人いる。
【祭壇厨子】楊氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第4号祭壇厨子に祀られている。
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洪通の大イチョウ
