ふるさと文化


フー姓

2018-08-10


この姓は、紀氏に由来し、始祖を傅雅と称する。現代中国においては、第227位の普及度を誇る姓である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源をもつ傅氏一族が、洪洞の「大槐樹」の地において、皇帝の勅命により一帯となって他地域へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・山西など各地に広がった。傅姓に関する最も古い記録は、唐代の『元和姓纂』に見られる。【起源】この姓は紀氏の系統に由来する。古代には、「符」は朝廷が命令を発し、将兵を派遣する際に用いる官符であり、金・玉・銅・竹・木などの素材で作られ、しばしば虎の形などに象ったもの——すなわち「虎符」と呼ばれる——から成り、縦に二つに割られて、一方は君主の使者が、もう一方は受領者がそれぞれ掌中に持っていた。

この家系は、傅雅を始祖とする紀氏に由来し、現代中国において第227位の姓である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する傅氏が、洪洞の「大槐樹」の地において皇帝の勅命により一帯に他地域へ移住させられた一族の一つであった。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・山西など各地に広がった。傅姓に関する最も古い記録は、唐代の著作『元和姓纂』に見られる。

【姓の由来】この姓は、紀氏に由来する。「符」は古代の朝廷において、命令を伝達し軍を動員するための官符であり、金・玉・銅・竹・木などの素材を用いて虎形などの特定の形状に作り上げたうえで、それを二つに割り、皇帝の使者と徴兵された者それぞれが片方を携帯した。命令を下す際には、両者がその符を照合して真偽を確かめた。『元和姓纂』および『姓氏録九編・注』によれば、戦国時代、魯が楚に滅ぼされた後、魯の最後の君主・魯の頃公の孫に雅という者がおり、秦へ逃れたところ、その勤勉さが認められて秦王より官符・印璽を管理する職である「符廄令」に任ぜられた。符廄令は位は高くないものの、皇帝の信頼厚い側近にのみ与えられる要職であった。雅は在任中、細心の注意を払い、一切の過誤を犯さず、当時最も優れた符廄令として称され、「符」という氏を名乗るようになった。これにより、その子孫はこの官職の名称に由来して「符」を姓としたのである。 【氏族の本貫】符姓の主要な本貫は琅邪郡である。琅邪郡とは、春秋時代には斉国の琅邪邑にあたり、越の勾践王が一度ここに都を遷したこともある。秦の始皇帝の即位初年(紀元前221年)、この地に郡制が設けられ、現在の山東省東南部に位置する諸城・臨沂・膠南各県のほぼ全域を管轄した。

【氏族館】傅姓の主要な氏族館は「恵民館」である。恵民館:宋代に、傅惟忠は西涼学館の副使を務め、ほどなくして開封府の主簿に昇進した。彼は河川の治水に長じており、恵民河と刁河が合流する地点において、水の流れを制御するための水門を築き、これにより洪水を根絶した。人々はその恩徳に深く感謝した。

【家廟の対聯】傅氏の代表的な対聯には、次のようなものがある。「素冠に高論をたたずむ」(傅栄)、「道を修める秘録」(傅千人)、「徳ある姉妹が連ねて国母となる」(傅彦卿)、「民に感動して涙を流す賢い太守」(傅霊謙)、「龍門に学び、まさに帝師の俊才なり」(傅栄)、「虎翼と巧みな計略をもって、壇上に抜きん出る将軍」(傅存深)。

【著名人物】『中国姓氏大辞典』には傅姓の例が22件収められ、『中国歴代人名大辞典』には29件が掲載されている。歴史上の傅姓の人物としては、東漢の傅乾仁がおり、『修養秘録』という一巻を著した。また、南唐の傅霊謙は肇慶の出身で、趙州の刺史を務めた。さらに、宋代の傅彦卿は宛丘の人で、天雄軍節度使を歴任した。

【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には傅姓の人口が5,862人おり、そのうち臨汾市には861人が居住している。

【祭壇櫃】祖先の位牌は、大イタヤカエデの下にある祖霊殿の第4号祭壇櫃に祀られている。

【輩行名】清代の断片的な『傅氏族譜』写本によれば、広東省文昌の傅氏一族の輩行名の順序は、「成朝祥瑞、玉倫仕泰、廣紹謙先、新壽昌平」である。

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