ふるさと文化
胡姓
2018-07-18
家系は胡氏に遡る。明代には、洪洞の「大槐樹」から移住した胡氏の先祖らは、もともと洪洞県平陽府および趙城県に戸籍を置いた。明初には、他地域への移住に際し、洪洞の「大槐樹」に集結するよう命じられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・遼寧・黒竜江・山西など各地に広がった。胡姓についての最も古い記録は、東漢の『風俗通・姓氏篇』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に三つの源流がある。①司氏に由来する。『通志・氏族略』および『史記・夏本紀』によれば、大禹の死後、その子の啓が王位を継ぎ、夏王朝を興した。これを「夏后啓」と称する。啓は中国において世襲制を開始し、史上初の奴隷制国家を樹立したため、古来の禅譲の制度を揺るがせ、諸侯国の間で不満を招いた。なかでも有扈国は啓の命令に従おうとせず、啓は軍を派遣してこれを討ち、両者は甘(鄠県の南)において激戦を繰り広げた。有扈の兵は奮戦したものの、勢力は拮抗したため、啓は天下の諸侯を招集して有扈征伐に臨んだ。当時、大禹は亡くなってまだ日が浅く、諸侯らはその偉業をいまだ鮮明に記憶しており、自ら進んで助力を申し出た。これにより、啓の軍は圧倒的な兵力差を誇った。有扈の勇士たちも果敢に戦ったが、結局は力及ばず敗北した。これを機に啓は有扈国を滅ぼした。その後、有扈の人々は故国の名を姓として受け継ぎ、これが胡姓の起源となった。②鮮卑系の姓に由来する。『魏書・官氏志』によれば、南北朝時代、北魏には鮮卑系の三字姓「斛律干」があり、魏の孝文帝とともに洛陽へ南下した。中原に移ってからは、この姓は漢人の姓「胡」へと改められた。③地名を姓としたものである。古代には「胡」「侯」「雲娥」の文字が同一に表記されていたため、胡姓は別名「胡」または「雲娥」姓とも呼ばれた。「雲娥」は古代の集落であり、夏代には有扈国が存在したが、秦代には雲娥の邑と改称され、さらに漢代には雲娥県となった。その遺跡は現在の陝西省鄠県の境内にあり、一部の子孫がその地名を姓として採用した。
【氏族の起源】胡氏の主要な先祖代々の管轄地は、京兆郡および河南郡である。京兆郡とは、都の行政区域を指す。秦代には、首都地域(おおよそ現在の陝西省咸陽市周辺に相当する)を統治するため「内史」の職が設けられた。漢の武帝の太初元年(紀元前104年)、右内史は京兆尹へと改編され、十二県を管轄した。その管轄範囲は、現在の陝西省西安市の東側から華県に至る一帯にほぼ相当する。
【氏族館】胡家の主たる氏族館は、沈錦館である。沈錦館:宋代には、胡再興が並外れた膂力と機転の利く才で名を馳せ、沈錦軍の統率者として任ぜられた。戦いが激しくなるたびに、髪を解き放ち背中を露わにして、両刃の刀をふるい、恐れを知らぬ勇気で陣中に突入し、あらゆる戦に勝利を収めた。
【堂額対聯】胡家の本堂の対聯は次のとおりである。「学舎は兄弟の情をいよいよ深めん」(胡孟)、「威と勢は趙陽を揺るがす」(胡在興)。「学問は日々に進み、名声は青鶏の里まで響きわたる」(胡孟)。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には胡氏の例が11件収められ、『中国歴代人名大辞典』には15件が掲載されている。戦国時代の趙国に胡茲という人物がおり、西漢には胡諶や、梁王配下の将軍・胡軼がいたほか、宋代には胡蒙という人物も見られる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には胡姓の人口が848人おり、そのうち臨汾市に241人、洪洞県に32人が居住している。
【祭壇櫃】胡氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第4号祭壇櫃に祀られている。【移住】曹県に住む胡氏の一派は、洪洞の大槐樹を発祥とし、その後曹県へ移り住み、現在まで二十三代にわたり脈々と受け継がれている。また、別の一支系は、祖先が山西省洪洞から明代洪武年間に運城県の胡塩屯村へ移ったことに由来する。さらに、もう一派は、祖先である胡鵬宇車・胡鵬挙らが明代永楽年間に山西省洪洞から棗強県の嘉会村へ移住したことに端を発し、これもまた二十三代にわたり家系が伝えられ、その人口はおよそ七百人に及ぶ。
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洪通の大イチョウ
