ふるさと文化
チー姓
2018-06-22
始祖は支父である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する支氏一族が、洪洞の大槐樹の下で皇帝の勅命により一斉に各地へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・黒竜江・山西など、広く各地に分布した。支姓に関する最も古い記録は、南宋時代の『姓苑』に見られる。【姓の由来】主な由来は三つある。① 国名を姓としたもの。「古今姓氏書辯証」および『通志・氏族略』によれば、古代の西域には月氏という国があった。その住民の一部は「月」を姓とし、また一部は「支」を姓とした。漢末には、支水乾・支亮・支謙らがいずれも月氏の人々であり、国名に由来する姓を称していた。なかでも支謙は字を公明といい、経書に精通し六国の言語に通じ、中国へ渡って孫権に仕え、学者として任ぜられた。② 先祖の名を姓としたもの。伝説によれば、古代の聖帝・堯は、息子の丹朱が不肖であると見て、臣下のうちから後継者を探した。その際、徳と智に優れた支父という人物がおり、堯は彼に王位を譲ろうとしたが、支父はこれを辞退した。やむを得ず堯は舜を選んだが、舜もまた禹に王位を譲った。史料によれば、堯は在位百年、舜は在位五十年であった。舜の没後、支父は堯が初めて彼に会ったときと同じ若さを保ち、中国古代初期の高名な人物として知られた。その子孫は、彼の名をたたえて「支」を姓とした。③ 姓「姬」に由来するもの。「路史」に記されるところでは、周の王室の子孫の中に支姓を有する者がおり、また諸侯や君主の庶子たちも時に「支」を姓とした。古代においては、正室の長子――いわゆる「宗子」――が家産の相続人と定められ、一方で正室の他の男子は「支子」と呼ばれ、分家する際に「支」の姓を称した。
【氏族の起源】支姓の主な発祥地は、琅邪郡と陽県である。陽県は、古代の辛国に属していた地域で、戦国時代には魏国の領土に含まれていた。秦代には河陽県と称され、内史郡の管轄下に置かれた。漢代には陽県となり、左馮翊がこれを管轄した。その名称は、川の南側、すなわち日当たりのよい側に位置することに由来する。現在では、陝西省の陽県(河陽県)に相当する。
【氏族の館】支姓の代表的な氏族の館は、白雀堂である。白雀堂――唐代に、支叔才という孝行心の極めて篤い人物がいた。あるとき、ひどい飢饉のさなか、母が盗賊に捕らえられたため、彼は食糧を乞うて歩いた。急いでその者たちを捜し求めたところ、叔才は事情を説明した。その孝行と貧しさへの哀れみに動かされ、盗賊たちは母を解放した。また別の機会には、母が膿瘍を患った際、叔才は自ら膿を吸い出し、懸命に看護してやることで、ついには傷を治癒させた。母の死後、彼は墓前で三年の喪に服し、その間、一対の白鵲が常に側に寄り添って相伴していた。その後、皇帝は彼を称えて褒賞を下された。
【家塾の対聯】支氏の代表的な対聯には、次のようなものがある。「孝行は賊までも感動す」(支叔才)、「勤学にして経典に深く通ず」(支理)。「林公はついに隠棲して退きぬ」(支遁)、「三代にわたり学者を輩出す」(支潜)。「高風は神駿を呼び起こす」(支遁)、「孝行は聖鳥をも感動す」(支叔才)。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には「支」姓の例が十二件収められ、『中国歴代人名大辞典』には二十九件が記されている。歴史上の「支」姓の人物としては、後漢末から三国時代の呉にかけて、四十九部の仏典を訳した高名な翻訳者・支謙がおり、晋代には高僧の支孝龍・支法雨が、五代十国時代には前蜀の画家・支仲元が、元代には詩人・支惟興がいる。唐代には定州の孝子・支叔才が、宋代には画家・支玄が、明代には昆山出身で湖広按撫使を務めた支可達が見られる。さらに、経学の大家・支理や詩人・支大倫もいた。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には姓「支」の人が8,905人おり、そのうち臨汾市に850人、洪洞県に2人がいます。
【祭壇厨子】大槐樹の下にある宗祠の第3号祭壇厨子には、支氏の先祖牌が祀られている。
【移住】洪洞の大槐樹の移住者の子孫のうち、ある一派はその先祖を明初にさかのぼり、当時の始祖が山西省洪洞から濮陽県朗中郷の芝寨村へと移り住んだことに起源を有する。また、冀県の支氏の一派には、明代永楽年間に山西省洪洞の大槐樹の下から冀県白尖へと移住した先祖を持つ家系がある。さらに、寧河県の支氏の一派にも、やはり永楽年間、山西省洪洞の大槐樹の古鶴巣より寧河県東荘村へと移住した先祖をもつ家系が存在する。
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洪通の大イチョウ
