ふるさと文化
チウ姓
2018-06-05
この家系は紀氏に遡り、その始祖は少昊と丘胡である。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源を有する丘氏が、洪洞の大槐樹の下で皇帝の勅命により一帯となって他地へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・天津・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・山西など各地に広がった。丘姓に関する最も古い記録は、南宋時代に編纂された姓氏総覧『姓苑』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に四つの源流がある。① 古代の皇帝・少昊の子孫に由来する。『路史』によれば、少昊は「金天の君」と称され、古代において「金天」とは秋を指す別称であった。そのため、少昊の子孫の一部は、その季節の別称から「秋」を姓とした。② 世襲の官職や爵位に由来する。周代には「司寇」という職が「秋官」と呼ばれ、刑事裁判および法令の監督を担当していた。その子孫の一部もまた「秋」を姓とした。③ 姬氏に由来する。『姓源』に記されるところでは、春秋時代の魯国に、学識深く、母が高齢であったため遠出を恐れていた人物・丘胡という者がいた。これをみて母は、妻を迎えるよう勧めた。丘胡は母の言に従い妻を迎えたが、結婚してわずか五日で、陳国へと旅立ち、その才覚により高位の官職にまで昇った。五年後、老母と妻を迎えに帰郷した際、村の入口に差し掛かると、林の中に桑の葉を摘む若い女性の姿を見た。その一挙手一投足は実に魅力的で、丘胡は思わず近づいたが、彼女は振り返り、桑の茂みへと消え去った。家に戻ると、母が蚕を飼っていた。再会の喜びと悲しみに胸を打たれ、二人は抱き合い泣いた――そのとき、突然妻が現れた。一目見ただけで、両者は驚愕した。林で桑を摘んでいたのは、まさに丘胡の妻だったのだ。夫であることを悟った妻は、出世のために長年自分を置き去りにし、母を苦しめてきたことへの激しい怒りをぶつけ、不貞行為や女性への軽侮を非難した。怒りを吐き終えると、彼女は玄関から飛び出し、丘胡が我に返って追いかけたときには、すでに川へ身を投じていた。羞恥と悲嘆に打ちひしがれ、深い悔恨にさいなまれた丘胡は、以後ひたすら精励することを決意し、やがて名臣として名を馳せた。その子孫は、彼の名に由来する「秋」を姓とした。④ 丘胡子の子孫に由来する。『姓源』によれば、春秋時代の魯国において、丘胡子の子孫の一部が「秋」を姓とした。
【氏族の起源】邱姓の主要な発祥地は天水郡である。天水郡は西漢の元鼎三年(紀元前114年)に初めて設置され、現在の甘粛省天水・隴西以東の地域に相当する。その行政中心地は平襄(現在の甘粛省通渭県西北部)に置かれていた。
【氏族会館】邱姓の代表的な氏族会館は「鑑湖堂」である。鑑湖堂:清朝末期、革命烈士で「鑑湖の女傑」と称される邱瑾は、徐錫麟と謀って蜂起を計画したが、その計画が露見し、処刑された。彼女は当時の傑出した女性として敬慕されている。
【家廟の対聯】邱姓にまつわる代表的な対聯には、次のようなものがある。「厳正なる官、民に慈しみ、経書に通じ、学識広く」(邱雲)、「徳と才を備え、名高い賢臣」(邱英)、「節操を堅く守る養蚕の女」(邱瑚)、「義のために身を捧ぐ」(邱瑾)、「魯の旅人にして、陳の客たる者」(邱瑚)である。
【著名人物】『中国姓氏大辞典』には邱姓の人物が二人記されており、『中国歴代人名大辞典』には五人が掲載されている。歴史上の邱姓の人物としては、春秋時代の魯国の官吏・邱胡、南唐の才女・邱水、明代の名妓・邱湘および遂寧県令を務めた邱鳳清、清代の著名な女性革命家・邱金、さらに宋代の中書舎人(古代の官職名)・邱当などが挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には邱姓の者が171人、臨汾市には69人、洪洞県には13人いる。
【祭壇厨子】邱氏の先祖位牌は、大槐樹の下にある宗祠の第3号祭壇厨子に祀られている。
【輩行名】中華民国18年秋、志遠は『邱氏族譜』を編纂した。江蘇省無錦の邱氏支派における輩行名の序列は、「賢・達・永・振、士・家・賢・良」である。
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洪通の大イチョウ
