ふるさと文化
徐姓
2018-05-16
始祖は徐陳であり、これによりこの姓は現代中国における297の姓の一つとなっている。明代には、平陽府・洪洞県・趙城県などに起源をもつ徐氏一族が、洪洞の大槐樹の地において皇帝の勅命により一斉に他地方へ移住させられた。清代末期には、その子孫は河南・山東・河北・北京・陝西・甘粛・安徽・江蘇・湖北・湖南・内モンゴル・遼寧・黒竜江・山西など、広範な地域に分布した。徐姓に関する最も古い記録は、南宋時代に編纂された姓氏総覧『姓苑』に見られる。
【姓の由来】この姓は、ある先祖の名に由来する。『通志・氏族略』によれば、春秋時代、晋の恵公は異母兄である重耳の才能を恐れ、その排除を企てた。やむなく諸国を流浪することとなったが、晋の有力な諸臣のほとんどが重耳に従い、その中に徐陳という人物もいた。字は季友で、十九年にわたる流浪の間じゅう重耳の側に侍り、博識と豊かな経験を備えていた。重耳が帰国して晋の文公となり、その功により徐陳は忠節を賞されて高位の官職に任ぜられ、のちには下軍の統帥および司空にまで昇進したため、「司空季子」と称された。あるとき、田畑で耕作する一人の男を見かけ、その妻が食事を運んでくるのを目にした。夫婦は互いに極めて敬意を払い、その行いはいずれも穏やかで礼儀正しかった。驚いた徐陳はその男と語り合い、その見識の卓抜さに感嘆した。彼は文公にその男を推薦し、文公は彼を下軍の高位の官吏に任命した。後に、顧義却は趙盾に代わって晋の宰相となり、その地位は徐陳を上回るほどになった。後世の人々は、徐陳が卑しい労働のなかにこそ真の才を見出し、他者の才能に対して嫉妬や怨みを抱かなかったことを高く評価し、このような徳は誠に稀有なものであると称えた。これにより、その子孫は徐という名を姓として受け継ぐようになった。
【氏族の故郷】徐氏の先祖の本貫は琅琊郡である。琅琊郡はもともと春秋時代の斉国における琅琊邑に相当する地域で、同時代の末期には越王勾践がここに都を遷した。秦代初期(紀元前221年)、秦の始皇帝によって琅琊郡が設置され、その管轄範囲はおおよそ現在の山東省東南部に位置する膠南県・諸城県・臨沂県の各区域に及んだ。
【氏族館】徐姓の主要な氏族館は「観寛館」である。観寛館とは、「観寛」とは正直で廉潔を意味する。宋代には、徐志耀が率直で直言不讳な風貌で知られていた。契丹が宋の辺境に侵入した際、志耀はしばしば国防に関する上奏文を皇帝に提出した。皇帝は彼を召し出し、左諫議大夫に任じた。
【堂聯】徐氏の主要な対句は次のとおりである。「孟の馬により功を成す」(徐陳)、「文において龍に乗る術を極める」(徐彦)。「一郡を統べ得る学者」(徐鼎)、「丹陽にて高く評される閨中の雅訓」(徐彦)。「孟の馬のごとく徳を響かせる」(徐陳)、「学問において龍を刻む技に巧み」(徐彦)。
【著名な人物】『中国姓氏大辞典』には徐姓の項目が13件収められ、『中国歴代人名大辞典』にも同様に13件が掲載されている。歴史上の著名な人物としては、春秋時代に晋国の官僚・徐甲およびもう一人の官僚・徐嬰、宋代には翰林学士・徐彦、明代には南京戸部郎中・徐文祥および御史・徐弼章、金代には范池出身で吏部右侍郎を務めた徐致国、清代には上元出身で工部主事の職にあった徐廷清などが挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には徐姓の人が2,101人おり、そのうち臨汾市に185人、洪洞県に51人が居住している。
【祭壇厨】先祖の位牌は、大イチョウの下にある宗祠の第3号祭壇厨に祀られている。
【系譜資料】徐氏の主要な系譜資料には、次のものが含まれる。「江蘇省江都県維揚・江都の徐氏族譜四巻」(北方図書館・第二部)、「湖南省湘陰の徐氏族譜一巻・序文付」(湖南省図書館・現存するのは序文のみ)、「四川省儀隴の徐氏族譜一巻」(四川省儀隴県档案館)および「徐氏族譜」(北方図書館)である。
【移住】明永楽十六年、洪洞の大槐樹に由来する徐氏の一支系が北京・懐柔県東邵渠村へ移住した。また、明初期の洪武年間に、陽谷に出自を有する徐氏の別の一支系が陽谷県大布郷徐荘村へ移住した。さらに、同じく陽谷に起源をもつ徐氏のもう一派が、やはり明の黎明期である洪武年間、陽谷県西湖郷徐荘村へと移り住んだ。
キーワード:
洪通の大イチョウ
