ふるさと文化
魏という姓
2018-05-04
この姓は周の文王にその起源を遡り、最も古い先祖には季交・衛青・李平が挙げられる。現代中国においては、第170位の頻度を誇る姓である。明代には、洪洞の大槐樹から移住した衛氏の先祖たちが、もともと平陽府・洪洞県・趙城県などの地域に戸籍を置かれていた。明初には、各地への移転に際して洪洞の大槐樹に集結するよう命じられた。清代末期には、その子孫は河南省・山東省・河北省・北京市・天津市・陝西省・甘粛省・安徽省・江蘇省・湖北省・湖南省・内モンゴル自治区・遼寧省・黒竜江省・山西省など、広く各地へと分布した。なお、衛姓に関する最も古い記録は、周代の文献『世本』に見られる。
【姓の由来】この姓には主に四つの源流がある。① 姓「姬」に由来するものである。「通志・氏族略」「広韻」「古今姓氏考」などによれば、周の初め、周の武王は弟の康叔を衛に封じて衛国を立てた。その都は、後に河南省済源県一帯などに移された。春秋戦国時代を通じて、紀元前254年に魏が魏に併合され、その附庸国となった。秦の始皇帝が中国を統一した後も、最後の魏君・姫角には爵位を保たせたが、始皇帝の在位36年目――即ち崩御の前年に至ってようやく、姫角は貴族の身分を剥奪され、平民に落とされた。こうして衛国は四十年にわたり存続し、総じて902年の歴史を有したため、姫氏の末裔のうちでは最も長く存続した封建国家となった。国を失った後、魏の諸侯の子孫は「衛」を姓として受け継いだ。② 少数民族の姓に由来するものである。「後燕書」には、昌黎の鮮卑の中に「衛」姓があり、慕容垂の治世にも「衛琚」という人物がいたと記されている。③ 鄭姓からの改姓に由来するものである。「漢書」に記されるところでは、漢代において衛青の本来の姓は鄭であった。父の鄭季が平陽侯の家に仕え、同侯の側室と不義の関係を持った結果、衛青が生まれた。その後、青は「衛」を姓として用い、衛青と称されるようになった。④ 皇室による姓の賜与に由来するものである。孝成帝は側室の李平夫人に「衛」の姓を賜った。その子孫は以後、「衛」を姓とした。
【氏族の起源】魏姓の主要な出自は河東郡である。河東郡は秦・漢の時代に設置され、その名称は晋地(現在の山西省)における黄河の東側の地域に由来する。その行政中心地は安邑で、現在の山西省夏県の北西部に位置し、おおよそ現代の山西省の南西部に相当する。
【氏族館】魏姓の主要な氏族館は、振遠館である。振遠館:西漢時代、河南の平陽(現在の山西省臨汾市南西部)出身の大将軍・衛青は、その勇猛さと卓越した軍事才能で名を馳せた。彼は匈奴に対して七度にわたり征伐を指揮し、いずれも圧倒的な勝利を収め、黄河以南の領土を回復して朔方郡を設置することで、漢王朝に対する匈奴の脅威を根絶した。
【堂聯】魏姓にまつわる主な対句には、次のようなものがある。「長平に賜はれた貴い位(魏青);墨の地に与えられた封邑(魏康叔)」「賢者をも容易に凌ぐと称され(魏大経);人間のなかでも比類なき珠として尊ばれる(魏王傑)」「詩は柏舟を詠じ、貞婦の節操をたたえる(魏紅);筆勢の構成に名作が生まれ、夫人より伝えられる(魏夫人)」「霜は珠のごとき輝きに凝り、玉は氷の雅を映す(魏王傑)」「罷免の七つの理由――偉大なる功績を成し遂げた(魏青);辺境の海を守る重任を二度にわたり託された(魏青)」
【著名な人物】『中国姓氏大辞典』には魏姓の記載が75件、『中国歴代人名大辞典』には143件収められている。この姓を名乗った歴史上の人物としては、秦代に朝鮮へ渡り王として自立した魏曼、漢代の衛子夫、西漢の名将・衛青、晋代の魏傑・魏謝および魏耕、さらに名高い女流書家・衛夫人、唐代に代宗の下で荊南節度使を務めた魏伯玉、元代の画家・魏九鼎、そして明代の昆山出身でやはり画家であった魏靖などが挙げられる。
【人口】第四回全国人口調査によると、山西省には魏姓の人口が11万8,289人おり、そのうち臨汾市に3万501人、洪洞県に9,322人が居住している。
【祭壇厨子】偉氏の先祖牌は、大イタヤカエデの下にある宗廟の第3号祭壇厨子に祀られている。
【系譜】魏姓の主要な系譜資料には、次のものが含まれる:『山西魏氏家譜二巻』(河北大学);『江蘇南通崇川魏氏族譜六巻』(上海図書館);『江蘇常熟魏氏家譜不分巻』(中国国家図書館);『江蘇無錫西山魏氏族譜十六巻附序一篇』(歴史研究所);ならびに『魏氏族譜』(中国国家図書館所蔵三巻)。
【輩行名】清の光緒年間写本『魏氏族譜』によれば、河南省濮陽の魏氏の輩行名の順序は、「義 至 丁 士 中、顕 紀 隨 寧 桂」となる。
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洪通の大イチョウ
